寿司屋の親父のひとり言

「寿司屋の親父のひとり言」第10回「『京橋 与志乃 吉祥寺支店の修業時代』から『深川での開店』まで」

東京の下町・門前仲町の『すし三ツ木』店主・三ツ木新吉さんは、2022年で74歳。中学入学と同時に稼業の寿司屋を手伝い始め、板前稼業もかれこれ60年。日本が大阪万国博覧会で沸いていた昭和45(1970)年に、深川不動尊の参道に開店した店は52周年を迎える。昭和の名店と謳われた京橋与志乃の吉祥寺店で厳しく仕込まれた腕は確かだが、親父さんのモットーは気取らないことと下町値段の明朗会計。昔ながらの江戸弁の洒脱な会話が楽しみで店を訪れる常連も多い。そんな親父さんが、寿司の歴史、昭和の板前修業のあれこれから、ネタの旬など、江戸前寿司の楽しみ方を縦横無尽に語りつくします。 第10回は、大将が、厳しくも愛情をもって鍛えられた修業時代の思い出と、下町・門前仲町で開業した当時の苦労話を語ります。

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「京橋 与志乃 吉祥寺支店の修業時代」から「深川での開店」まで

客商売のイロハを教えてくれた親方

 東京オリンピック(1964年10月開催)の興奮まだ冷めやらぬ昭和40(1965)年1月、中学の先輩の家に遊びに行き、彼のお兄さんに、「俺の知り合いが吉祥寺で寿司屋を開いたから、おまえ、手伝いに行かないか」と誘われたのがきっかけで、「京橋 与志乃 吉祥寺支店」に入ることになりました。このときから、家業の手伝いではなく、他人の釜の飯を食う、本格的な修業が始まりました。

 親方は斉藤実さん。背が高く、ハンサムで、笑顔のやさしい方でした。当時は独身で、江戸前寿司では屈指の名店「京橋 与志乃」で修業し、オリンピック直後の前年11月に独立したばかり。親方の妹さんが店を手伝っていましたが、年明けに私、そしてもう1人、同年齢のたもつ君が入店し、4人で店を切り盛りするようになりました。

入店して半年が過ぎ、親方から許しが出て、お客さんの前で仕事させてもらえるようになったときは、それは誇らしい気持ちでした。その頃には、1人、2人と若い衆が増え、店は一気に活気づいていきました。常連さんも増え、親方がお客さんとの付き合いでゴルフに行くようになると、留守の間の仕事は完全に任せてもらい、昼間は私の独壇場になりました。そうなると、元来の向こう見ずな性格が顔を出します。

お客さんがどこかで仕入れてきた、寿司に関する生半可な蘊蓄(うんちく)のあれこれを語り出すと、我慢ができず、「そりゃあ、私が覚えたこととは違いますねえ」と徹底的に逆らう。しまいにはお客さんはかんかんです。親方には、「自分が正しいと思っても、相手はお客さんなんだから聞き流せ」とよく説教されました。今は笑って右の耳から左の耳へ素通りさせるなんて芸当もできるようになりましたが、当時は納得できないから、何度もそんなことを繰り返し、その度に説教です。

親方の握り方を盗むために木型を作ってこっそり練習を重ねたことは書きましたが、あれも、お客さんに、「親方とは握り具合が違うな」と言われたことがきっかけでした。親方の握り方は、そりゃあ見事な本手返しでしたから、なんとしても盗んでやろうと必死でした。

親方は、板前の技術を教えてくれるだけじゃなく、客商売のイロハも折に触れて語ってくれました。親方はカウンターのお客さんと話すときも、話題が豊富で様々なことに精通していました。感心していると、「寿司屋はお客さんの目の前で握るんだから、会話だって仕事の内だ。あれも知らない、これも知らないじゃ通用しない。テレビのニュースを見て、新聞をよく読んで、物ごとを広く浅く覚えておけば、相槌ぐらいは打てる。上手に聞き役になることで、お客さんに気分良く食べていってもらえるんだ」と、噛んで含めるように教えてくれました。

「よく働き、よく遊ぶ」が親方のモットーでしたが、その境目をきちんとつけることにはうるさかった。「どれだけ遊んでもいいが、仕事の10分前には仕事の顔になれ」とよく言われました。

昭和40年代の前半はマンモス・カウンターのバーが流行っていて、よく、近くの商店や工場で働く若い衆――ほとんどが中学を卒業して集団就職列車で東京に出てきた連中です――と繰り出しました。ジンライムやらソルティドッグやら当時人気のカクテルを飲みながら、毎回朝まで大はしゃぎです。一度、そのまま店に出て眠そうな目をしていたときにはこっぴどく叱られました。カウンターのお客さんと話が盛り上がって、握る手がおろそかになったときも、「新ちゃんは、話してると仕事が遅いねえ」と小言を食らったっけ。

私は、叱られたら、へこむより向かっていくほうでしたから、二度と店でボケ面さらすことはしなかったし、握るスピードも格段に速くなりました。これも親方がメリハリをつけて叱ってくれたおかげです。

名人の風格があった京橋の大親方

親方は、私と同じで酒には不調法なほうで、暇なときはよくコーヒーを飲みに行っていました。三軒隣りがエコーという喫茶店で、そこには有名な小説家とか画家といった人たちがよく来ていましたが、そういう人たちと軽口をたたきながら、「頼むよ」のひと言で好みのコーヒーが出てくる。「おれもいつかああいうふうになりてえな」と憧れたもんです。

趣味はダンスで、京橋時代は休みの日にはダンスに明け暮れていたようです。暇なときには、「新ちゃん、ワルツはこうやって踊るんだよ」ってなこと言いながら、店の中で楽しそうにステップを踏んでしました。ふと気がつけば、自分も暇さえあれば、若い衆相手に好きな釣りの話をしています。やってることは似ていますね。

3年後に親方が結婚。温厚でやさしいおかみさんが加わり、むさくるしかった男所帯がずいぶん変わりました。それまでみんなの食事の支度は私の仕事で、親方の希望を聞いて作るんですが、忙しいときのおかずはキャベツをちぎって、当時流行り出したマヨネーズをかけるだけ。珍しいもんだから、みんな満足していましたが、おかみさんが作るようになってそういうこともなくなりました。おかみさんは学校の先生をしていたそうで、外国のお客さんがきたときに英語を教えてもらった記憶があります。

吉祥寺で修業したのは約5年半。親方には、寿司職人に必要なあらゆることを教えてもらいました。仕込みや握り方といった技術的なことばかりじゃなく、立ち居振る舞い、言葉づかい、掃除の仕方、仕事に対する心構え……。実家で5年間、家業を手伝ってそれなりに仕事をこなせるつもりになっていた自分を、親方が一から鍛え直してくれたおかげで、今の自分があるのは間違いありません。

独立してからの何かと気にかけてくださり、あるとき、テレビ出演の話が舞い込んだとき、身体の加減が悪いにもかかわらず飛んできてくれて、修業のおさらいをしてくれました。鍛えられている頃は反発する気持ちもありましたが、自分が若い衆を預かる立場になってからは、親方のありがたさが身にしみるようになりました。今でもときに相談したくなることはありますが、既に他界され、もうそれも叶いません。

親方の葬儀、一周忌では、おかみさん、妹さん、友人方、そしてみんないいおっさんになった元弟子たちで、思い出話に花が咲きました。一瞬、あの頃に帰ったような気分になりましたが、久しぶりに歩いた吉祥寺の町は大きく様変わりして、当時の面影はなくなっていました。そういえば、あの頃一緒に遊んだ集団就職組は今頃どうしているんでしょうね。

親方の親方、京橋の大親方、吉野末吉さんにもずいぶん世話になりました。当時はホテルでのパーティなど大きな出張仕事があり、本店の板前だけでは足りなくなると、私も手伝いに行かされました。大親方の目の前で握り、仕事をほめられたときのことはいまだに忘れられません。涙が出そうになるくらいうれしかったですね。大親方は、深川の私の店にも足を運んでくださり、あれやこれやと教えていただきました。

大親方の元で修業された方の中には、今でも大活躍なさっている素晴らしい腕を持った先輩がたくさんいらっしゃいます。これぞ名人という風格がある方でしたね。

開店前にスタートダッシュで大コケ

昭和45(1970)年8月26日、深川に「すし 三ツ木」を開店しました。結婚して1年、妻の実家を改装して店にしました。うちのおかみさんの家はお産婆さんで、明治、大正、昭和と3代続いた名のある助産院でした。その頃は、お産婆さんではなく病院で出産する人が増え、義母も寄る年波には勝てず引退を考えていたようです。義母に「新ちゃん、ここで店を開いてみるかい?」と言われて、二つ返事で店を持つ決心をしました。

さあ、これでおれも一国一城の主だと気負いましたが、どっこいそうは問屋が卸さない。まず最初の壁が立ちはだかります。吉祥寺時代に貯めた金子では開店資金が足りず、深川じゅうの銀行にお伺いを立てましたが、ことごとく断られました。スタートダッシュで大コケです。

世間の風は冷てえなとヘコんでいると、助けの神が現れました。おかみさんのお琴の師匠が信用組合を紹介してくれて、融資の話がまとまり、やっと改装資金の目鼻がつきました。

ところが今度は、寿司の道具類を揃える資金が足りなくなり、また大ピンチ。困り果てて、道具屋さんに事情を話すと、「あんたは、『京橋 与志乃』の吉祥寺支店にいたんだろ。だったら大丈夫だ。全額貸してやるよ」とあっさり。捨てる神あれば、拾う神あり。道具屋さんの若い職人を育ててやろうというやさしさに救われたわけですが、これもひとえに親方が築いてきた信用のおかげです。改めて感謝しました。

ここからはトントン拍子にことが運び、世の中が大坂万国博覧会で盛り上がっている夏の最中、開店の運びをなりました。信用組合と道具屋さんへの借金を返すために、その日から2年間、1日も休まず店を開けました。その道具屋さん、築地常陸屋さんには1年9ヵ月で返済を終えました。当時のご主人は亡くなり、息子さんの代になってからもお付き合いは続いていますが、あのときの感謝の気持ちは忘れていません。

開店したてはお客さんでにぎわいましたが、だんだんに静かになっていき、客が1日にひと組なんて日も出てきて、生活はどんどん苦しくなりました。

こうなると、半端な魚をおかずにして残ったシャリを食べる日々が続くようになります。美味しい魚が食べられていいじゃないかと思うかもしれませんが、魚と酢飯が毎日というのはきついものです。食事の度に「たまにはコロッケ食いてえなあ」と思っていました。

そんな状況からなかなか抜け出せないまま3年、今度はオイルショックがやってきます。トイレットペーパーがスーパーの店頭から消える、節電のためにテレビの放送は24時でおしまい、店も遅くまでは営業できなくなりました。あのときは、店を潰してしまうんじゃないかと本気で心配しました。

その状況を乗り越え、5年目を迎える頃には商売も軌道に乗り、やっと店も繁盛するようになりました。開店から52年が過ぎ、今では、コロッケどころか、たまには娘を連れて食道楽旅行に出かけられるようにもなりました。

「のど元過ぎれば熱さ忘れる」なんて言葉もありますが、人間、つらかった記憶は薄れていくものです。でも、ここまで来れたのは、親方、おかみさん、義母、常陸屋さん、うちのおかみさん、そして、贔屓にしてくださったお客さん始め、多くの人と繋がり、支えられてきたおかげだと、深く心に刻んでいます。

暖簾を52年守ってこられた秘訣は何かといえば、きちんと仕事をすることは当然ですか、人との出会いを大切にして、感謝の気持ちを忘れないこと、これに尽きるじゃないでしょうか。

(本文は、2012年6月15日刊『寿司屋の親父のひとり言』に加筆修正したものです)

オイルショックもバブル崩壊も乗り越えて、暖簾を掲げて52年。

すし 三ツ木

住所:東京都江東区富岡1‐13‐13
電話:03‐3641‐2863
営業時間:11時半~13時半、17時~22時
定休日:第3日曜日、月曜日
交通:東西線門前仲町駅1番出口から徒歩1分

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