浅田次郎の名エッセイ

浅田次郎の「勇気凛凛ルリの色」セレクト(11)「鉄血について」

1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第11回は、沖縄編の3本目。1971年、沖縄がまだ米軍の統治下にあった頃、当時、陸上自衛官だった浅田さんは、1人の沖縄出身青年と出会う……。

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「鉄血について」

自衛隊入隊直後に出会った沖縄青年

先週に引き続き、沖縄について書こうと思う。

現在の沖縄をめぐる諸問題について、まず「沖縄戦」から語ろうとする私は、むしろ反動的であろう。昭和26(1951)年生まれという年齢からしても、物語を捏造(ねつぞう)する小説家という職業からしても、また自衛隊出身者という履歴からしても、沖縄戦を語る資格はないかもしれない。そうした譏(そし)りを承知の上で、あえて再び書かせていただく。

私と沖縄との出会いは、昭和46(1971)年の春、19歳のときであった。不良文学少年であった私はその年、なかば食いつめ、なかば三島事件の惑乱のうちに、陸上自衛隊に志願したのであった。

後期教育隊の隣のベッドに、Yという沖縄県出身の隊員がいた。無口で偏屈で、そのくせ妙に理屈っぽい男であった。年齢は私よりいくつか上であったと思う。

物理的にも精神的にも極めて閉塞的な男の世界では、当然のごとくこうしたタイプは嫌われる。もっとも、小説家になる予定のまま自衛隊に入った私は、おそらく彼に輪をかけた偏屈者であったはずであるが、

彼がどういう経緯で入隊したのかは知らない。高度成長まっただなかの、しかも学生運動もベトナム戦争もたけなわのあのころ、自衛隊に入隊するなどとはほとんど狂気の沙汰であり、したがっておたがいの「事情」を詮索することは一種のタブーであった。

「沖縄を独立国家にする」と、Yは言っていた。なぜかと訪ねると、「君にはわからん」と答えた。市ヶ谷駐屯地の西のはずれにある隊舎の非常階段で、ただれ落ちる夕日を見つめながら、Yは言葉のかわりにハモニカを吹いた。

やがて私たちは同じ連隊に配属されたが、生活の単位である中隊は別であったので、自然と交誼(こうぎ)は絶えた。

いちど外出先でバッタリと出会い、喫茶店に入ったことがある。神保町の古本屋街で、しかも戦史書専門の書店の棚の前で出くわしたのである。貴重な外出時間を費やすにはたいそう場違いであったから、なんとなくおたがいの正体を見てしまったような、ふしぎな気分であった。

いまふと書斎を見渡して、そのとき買った本は何であったかと考えた。コーヒーを飲みながらお互いが購入した書物を見せ合い、内容を論じ合った記憶がある。だとすると沖縄戦に関する私の蔵書のうちの最も古いものであろうから、防衛庁戦史室編纂になる戦史叢書か、八原博通著の『沖縄決戦』、もしくは大田昌秀現知事の著書のうちの何かであったろうと思う。

いずれにしろはっきりと記憶に残るのは、私が沖縄戦に興味を持っていると知ったYの、熱っぽい表情と弁舌である。彼は私が同志であるかのように語り、私はそういうつもりではないと抗(あらが)い、しまいには論争になって別れた。内容は記憶にないが、たぶん彼は相当に過激な主張をし、私はそれを忌避したのだと思う。

全ての自衛官は「反戦自衛官」ではないのか

Yはその後ほどなく、外部の反戦活動家と結びつき、防衛庁の正門前で制服姿のまま抗議文を読み上げて懲戒免職となった。以後の消息は知らない。

事件の後、私も連隊の情報幹部に呼び出されて尋問を受けたが、教育隊で語り合ったことや神保町の喫茶店で論じ合ったことについては、何も口にしなかった。関りを避けたわけではない。彼の純粋な人となりを知る私にとって、Yが自衛隊からあしざまに言われるほど罪深い人間であったとは、どうしても思えなかったからである。

ウェスト・ポイントに留学していたというエリートの情報将校は部隊の名物で、いつもこれ見よがしのグリーン・ベレーをかぶり、レイバンのサングラスをかけていた。こんなやつにYが罵(ののし)られるいわれはないと思った。

尋問の途中で「反戦自衛官」という言葉がさかんに彼の口からで出たので、「Yは反戦自衛官ですが、それを言うなら自分も反戦自衛官です。自衛官は全員反戦自衛官ではないのですか」、と言ってやった。以来私は、この幹部にだけはどこですれちがってもことごとく欠礼をした。もし咎(とが)められたらたちどころに言い返してやろうと考えていたが、幸か不幸かその機会はなかった。安保の是非は別としても、私は自衛官の名誉と日本男子の矜(ほこ)りにかけて、グリーン・ベレーに敬礼する理由をもたなかった。

ダブダブの軍服を着て死んだ少女

私事はさておき、あれから四半世紀の時を経て、再び古い沖縄戦の資料を繙くことになった。新たに問題が提起されるまで、なぜ忘れていたのだろうと反省しきりである。

昭和57年那覇新聞社発行の『沖縄戦』と題する記録集の中に、一葉の写真がある。それを見たとたん、私は他の資料を読み進む勇気を失った。

草木一本すらない乾いた瓦礫(がれき)の上に、一人の少女が仰向けに死んでいる。ライフルを持った米兵が少女の雑嚢(ざつのう)の中から手榴弾を取り出しながら、悲しげに死顔を見つめている。

解説には従軍看護婦とあるが、その屍(しかばね)は私たちが映画で見たひめゆりの少女たちの姿とは余りにかけ離れている。少女が身にまとっているものは白いブラウスでも絣(かすり)のモンペでもなく、ダブダブの軍服なのである。上半身は真黒な血に染(そ)んでおり、大地に投げ出された小さな足には、やはりブカブカの軍靴をはいている。鉄帽がかたわらにはじけ飛んでおり、胸のポケットからは四発の小銃弾がのぞいている。雑嚢の血だらけの蓋に「照」という文字が読み取れる。「照子」もしくは「照代」という少女の名前であろうか。あるいは「照屋」などという、沖縄にはよくある苗字(みょうじ)かもしれない。

鼻腔(びこう)から血を流して事切れている少女の顔は白い。瞳はうつろに、戦場となったふるさとの空に向けられている。彼女がおそらく私の娘と同年配であろうと考えついたとき、それ以上の資料を読み進む勇気を、私は失った。

鉄血勤皇隊やひめゆり部隊を初めとする女子学徒隊は、今でいう中学生と高校生で編成されていた。その総数は2361名に及び、過半数の1224名が死んだ。1平方メートルあたり10トンも降り注いだ鋼鉄の雨に打たれ、1500隻の艦船から上陸してきた183,000の米軍に立ち向かったあげく、虫けらのように嬲(なぶ)り殺されたのである。

流行歌のかわりに軍歌を唄い、美しい母国語を吶喊(とっかん)の悲鳴に変えて死んでいった少女は、撃ち倒されて仰ぎ見たふるさとの夏空に、いったい何を思い、何を見たのであろう。ダブダブの軍服を着せられ、鉄甲(てつかぶと)をかぶせられ、銃を持たされた少女は、おそらく恋も学問の楽しみもしらなかった。だが、自分の死ぬべき理由だけは、正確に知っていたと思う。それは祖国のために死ぬということ、日本のために死ぬということである。

四半世紀を経て残る「生涯の悔い」

鉄血勤皇隊として摩文仁(まぶに)の玉砕地に生き残った大田昌秀知事の主張するところに、議論の余地は何一つとしてない。誰が書類にサインをするかなどという政府のとまどいは、論ずるに愚劣である。

考えても見てくれ。大田昌秀という人は、あの戦を自ら体験したばかりか、戦後東京の大学に学び、米国に留学し、すべてを理解したのち沖縄県知事として立ったのである。平和な世の中で保身に汲々(きゅうきゅう)とし、時勢の赴(おもむ)くままにころころと節を曲げる正体不明の議員たちとは、そもそも人間としても政治家としても、物がちがうのである。もちろん重大な国際会議の予定を寸前でキャンセルするような不見識な大統領とは、全く比較にならぬ大人物なのである。

私は四半世紀前のあのとき、なぜYの言わんとするところを真剣に聞かなかったのだろうと、今にして悔いている。耳に残るものが彼の主張ではなく、隊舎の非常階段で彼の吹いたハモニカの音色だけであることを、深く恥じている。この先も、生涯の悔いとして残ると思う。正当な主張を誰にも聞いてもらえなかったYは、ハモニカのメロディにやり場のない怒りと悲しみを托(たく)するほかはなかったのであろう。

県知事の温厚な表情のうちには、50年間少しも変わらぬ鉄血の流れていることを、われわれは知らねばならない。少なくとも私は、古今東西のどのような偉人にも増して、大田昌秀知事を尊敬している。

氏は、目に見える正義そのものである。正義を看過する悪魔の所業を、われわれは二度とくり返してはならない。

(初出/週刊現代1995年12月9日号)

反戦自衛官事件とは

沖縄の本土復帰直前の1972年4月27日、六本木にあった防衛庁前に、報道陣を引き連れた5人の現役自衛官が現れ、自衛隊の沖縄移駐に反対する声明を読み上げた。5人は懲戒免職となるが、そのなかには、沖縄今帰仁村出身で、当時20歳だった一等陸士がいた。

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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