浅田次郎の名エッセイ

「勇気凜凜ルリの色」セレクト(21)「方向オンチについて」

1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第21回。小説家に成りたての浅田さんが、高偏差値職能集団の編集者たちと付き合い始めて気づいた、ある悲喜劇的真理とは?

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「方向オンチについて」

突出した才能と突出した欠点は同居する!

遅ればせながら小説家の仲間入りをして、さまざまの分野でご活躍の文化人の方々とお付合いをするようになった。また同時に、きわめて偏差値の高い職能集団である編集者の皆さんとも、深い交誼(こうぎ)を結ぶようになった。

長いこと個々の能力の多寡を論ずるほどのけっこうな社会は知らなかったのである。つまり他人に対する評価というのは、「あいつは悪党だが人殺しはしねえ」とか、「やつは血も涙もないが家庭だけは大事にする」とか、「根は悪い人間じゃねえ」とか、「バクチさえぶたなきゃまともなんだがなあ」とかいうようなものだったのである。

ところが4年ぐらい前から突然と私の周辺には、人殺しはせず、血も涙もあり、根っから信用できる、バクチ嫌いの人々が集まり出した。自分だけが悔い改めていないので、まさに神を見る思いである。

さてそうこうするうち、ちかごろ面白いことに気付いた。

どうやら神様は、人間ひとりひとりに、能力の総量を定めているらしいのである。それもかなり公平平等に、である。

つまりこういうことだ。頭のいい人物は、どこかがその分だけヌケている。突出的な天賦の才能を持っている人間は、必ずといっていいほど「天才的に欠けている部分」を持っているのである。

多くの高偏差値族を観察しているうちに、彼らのひとりひとりが実は、その能力と見合うだけの「○○音痴」であることに、私は気付いてしまったのであった。

曰く、信じがたいほどの小心。金銭感覚の徹底的な欠如。異常な露悪癖。恋愛恐怖症または過敏症。性欲過剰または性的不能。自己嫌悪もしくは誇大妄想。

私の場合、べつに突出的な能力があるとは思わんが、まさに異常としか考えられぬ致命的欠陥がいくつかある。もはやアキレス腱を狙われる心配はなかろうから、告白しておく。

「理系音痴」とでも言おうか。作家や編集者の間にも、この手合が多い。

以前にもちと触れたが、「機械」と名が付けばもういかんのである。「取扱説明書」の添えられているツールに関しては、はなからそれを読む意志もなく、触る気にもならん。「数字」もまったくダメである。電話番号は自宅と事務所の一回線ずつしか覚えておらず、実家のそれも、いま机上に置かれている仕事用の電話番号すらも知らない。あえて覚える気もない。

生来のものであるから、大学受験のとき日本史や世界史の年号を暗記するにしても、四ケタの数字はほぼ絶対に覚えられないので、「ひぐれに結ぶ日と英」(1902年・日英同盟)、「日清勝って一躍進」(1894年・日清戦争)、「老中定信ひなの花」(1787年・寛政の改革)、てな具合に、すべて文章で暗記した。数字で覚えたものはただひとつ、関ヶ原の合戦(1600年!)のみである。

ただし、ふしぎなことに性格がたいそうセコいので、計算は早い。原稿料・印税等の入金ミスはたちどころに発見し、電話番号を覚えていないので、その足で殴り込むことになっている(いまフト思ったのだが、数字の上に¥がつけばちゃんと理解するのかも知れない)。

多芸多才な辣腕編集者の弱点とは

さて、私事はさておき、私をめぐるエリートの皆さんの意外なる「○○音痴」を並べつらねれば、それだけで1冊の悲喜劇オムニバスを成すほど枚挙にいとまがない。

ここにごく最近目のあたりにした驚天動地のエピソードをご紹介する。

某女史は大手出版社の辣腕(らつわん)編集者、一流大学卒の才媛である。少々年齢に似合わずミーハーな印象はあるものの、それは世間をたばかる仮面。内実は歩く辞典、物言うライブラリイ、動く自動翻訳機とでもいうべき稀有(けう)の能力を備えている。やや行きおくれの感は否めぬが、そんな下々のモラリズム、メンタリズムなどどこ吹く風、休日には馬術をたしなみ、美術館をめぐる。笑顔は美しいが、笑わぬとどこか哲人の風貌があり、殺せばまちがいなく化けて出る、という感じもする。

そんな女史の人格を私はひそかに尊敬し、能力に信倚(しんい)していた。もちろん、彼女に限っては「○○音痴」などという言葉とは無縁であろうと信じていたのである。

過日、銀座三笠会館ティールームにて待ち合わせた。時刻は夜の8時であったと思う。締切ギリギリに仕上った原稿を手渡すためであった。

ともかくギリギリなので、決してお時間には遅れないで下さいと、女史は電話で念を押した。しかし──10分待ち、15分待っても女史はティールームに姿を現さなかった。

携帯電話が鳴った。耳に飛びこんできたのは、日ごろの女史からは想像もつかぬ気弱な声。

「あの~~すみませえ~~ん。ミカサ会館て、どこですかァ~~」

私は憮然とした。三笠会館本店は伝統と格式を誇る銀座の老舗、知らぬとは言わせぬ。

「どこも何も、並木通りの入口だ。早くこい」

「え~~と。その並木通りがですね~~わかんなくなっちゃったんですゥ~~」

「わからなくなったら人に訊け」

「それがですね~~もう10人ぐらいに訊いたんですけど、訊けば訊くほどわからなくなっちゃってェ~~」

 これが噂に聞く「方向オンチ」だと私は悟った。

「……今、どこにいる」

「えーと、えーと、たぶん四丁目の交叉点。和光と三越があるから……」

「よし、すぐそばだ。そこから霞ヶ関方向に歩け。すぐに並木通りがある」

「か、か、かすみがせき方向って、どっちですかァ~~」

「築地の反対だ」

「つ、つ、つきじィ~~ともかく行ってみまァす」

 さらに15分たっても女史は現れなかった。再び携帯電話が鳴った。

「あの~~、どこまで行っても並木通りがないんですけど、私、いまどこにいるんですかァ~~」

「そんなの知るかっ。いいか、冷静に周囲を観察せよ。何か目印があるだろう」

「めじるし。えーと、えーと、なんだ。博品館劇場とか……」

「ちがうっ! いいか、気をしっかり持て。君はいま、新橋方向に向かっている。ぜんぜん方向がちがう」

「ええっ。新橋ッ! あ、ほんとだ、どうしよう、どうすればいいんですか」

「ハッハッ、そのまま行けばいずれ多摩川を渡り、箱根に至るであろう。まず博品館の角を右折。じきに並木通りにぶつかるのでそれを右折。まっすぐ行って右側が目的地だ」

「うわー、むずかしい」

「むずかしくなんかないっ!」

「ともかく……行ってみます」

 さらに10分がたった。再び電話が鳴った。

「あの~、もっともっとわからなくなっちゃったんですけどォ~~」

「……目印を言え」

「帝国ホテルのそば。パーティやるからよく知ってます」

「ちーがーうー! 180度、回れ右。迎えに行くからそのまま現況報告をしながら歩け」

 私は携帯電話を耳に当てたまま捜索に出た。

「こちら浅田。いまどこだ。どうぞ」

「ハイ。エスカイヤクラブ、とか」

「それは銀座にいくつもある」

「丸源ビル……」

「それも星の数ほどある。もういい、動くな。そのまま一歩も動くな、俺が捜す」

約30分後、私は銀座七丁目付近の路上で、携帯電話を耳に当てたまま膝を抱えて蹲(うずくま)る女史を発見し、無事保護した。その泣きぬれた顔をひとめ見たとき、私はもう己れの非才を嘆くのはよそうと思った。

ところで、多芸多才な女史はいよいよ登山に挑戦すると言っているのであるが、やはりとめるべきであろうか。

(初出/1996年12月14日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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