1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第22回。あの『蒼穹の昴』の登場人物のモデルともなった完全無欠のスーパー編集者。だが、彼にも致命的欠点はあった……。
画像ギャラリー「高所恐怖症について」
3年間、完全無欠に見えた男だったが
先だって私は本稿において、「方向音痴の女性編集者」について書いた。
たいそう好評であったので、今回は「高所恐怖症の男性編集者」について書く。対聯(ついれん)のごとくに並べて読んでいただければ、さぞ面白かろうと思う。
件(くだん)の「方向音痴」がその後、周囲から白い目で見られているであろうことは想像に難くないので、「高所恐怖症」が同じ運命をたどることは余りに気の毒と思い、あえて実名は伏せる。言いたいけど伏せる。
年齢は40なかば、ただし10歳ぐらいは若く見える。いっけんして東幹久ふう好男子。早稲田大学法学部卒のエリートで、出版業界のガリバー「本家音羽屋」の番頭、とだけ言っておこう。ついでにもうちょっと言うと、身長1メートル80センチぐらい、丸顔、出身は大阪、現住所は杉並区環七の近く、名刺の肩書は「文芸部次長」である。
お世辞ではなく、スーパー編集者である。身体壮健、容姿端麗、才気煥発(さきかんぱつ)、意気軒昂(いきけんこう)、まこと非の打ちどころがない。ちなみに、『蒼穹の昴』に登場する日本人新聞記者「岡圭之介」のイメージ・モデルといえば、すでに拙著をお読みいただいた読者の方には容易にその人となりが想像できるであろう。
さて、私はかねてより「神様は人間の才能を平等に造り給うた」と考えている。すなわち、突出的に能力があると思える人間は、その長所に見合うだけの突出的な欠陥がある、と信じている。
そこで件の「方向音痴」については、「ほーらみろ、やっぱりそうだ」と溜飲をさげたわけであるが、いっけんして完全無欠に見えるこの男性編集者についても、必ずや致命的欠陥があるはずだと、つねづね観察していた。
しかし彼は、なかなか私の前に正体をさらけ出そうとはしなかった。3年余も親しく付き合ったが、相変らず身体壮健、容姿端麗、才気煥発、意気軒昂、その人格行動にいささかの瑕瑾(かきん)も見出せない。
おっかしいなー、そんなはずはねーんだがなー、と私は悩んでいた。
そんなある日、まことにヒョンなことから彼の致命的大瑕瑾を発見した。
さすが大物となると舞台もデカい。ついに彼が正体をさらけ出した場所は、あろうことかかの秦の始皇帝がこさえた人類史上最大の建造物、万里の長城のてっぺんであった。
はしゃぐ作家とうなだれる編集者
まったく予想だにせぬ出来事であった。まあ聞いてくれ。
過日、「フライデー」グラビア取材班とともに北京・西安を巡った。この旅は同時に「小説現代」連載中の『蒼穹の昴第2部・珍妃の井戸』の取材も兼ねている。したがって文芸担当者の彼も一行に加わった。
2日目、万里の長城から韃靼(だったん)族の故地、満洲を眺めようということになり、マイクロバスを仕立てて北へと向かった。この間、私はもちろん取材に没頭していた。メモを取り続け、写真を撮り続け、よもや件の彼がこんなところで大変なことになろうとは、夢にも思ってはいなかった。
バスは河北の原野をひた走り、徐々に高度を増して行った。そのうち、彼が次第に無口になった。
「けっこう高い所にあるんですね~~、意外だな~~」
とか言った。やがて切り立った山稜に、あこがれの長城が見えた。もとより高所愛好者である私は、思いもよらぬ雄大な景観に快哉の声を上げた。
「おおっ! これはすごい。胸がワクワクする。どうだ、見てみろ!」
「……ははァ……すごいですねえ~~、胸がワクワクしますねえ~~」
「ン? どうした。車に酔ったんか。顔色が悪いけど」
「いえ。べつに……」
車はやがて混雑する観光ルートをはずれ、山間を分け入るようにして、ちっぽけな入場口の前で止まった。ガイドの説明によれば、この先にはロープウェーもあるが、どうせだから歩いて登りましょう、それの方がいい写真も撮れるし。
高所愛好症、ならびに世にも珍しき体育会系作家である私は、キャッキャッとはしゃいで胸をつくほどの石段を駆け上がった。
見上げれば万里の長城は、まるで大空に架け渡された階(きざはし)のごとく、峻険(しゅんけん)に、はるかに続いていた。
「おーい、何してるんだよー! 早くこいよー。すっげえぞー、うわァ、クラクラする」
フト見ると、石段の下で編集者がうなだれている。思えばそのとき、彼の内なる絶望感と恐怖とを、斟酌(しんしやく)しなかった私は愚かであった。私は彼が車に酔ったか、もしくは二日酔のため気分でも悪いのであろうと考えた。
「さあ、行くよー! ヤッ、ホー! うわ、こえー、おっかねー、キンタマちぢむー!」
とかはしゃぎながら、私は編集者を石段の上に引きずり上げ、ワッセワッセとその尻を押した。
「……あの、浅田さん。じ、自分で歩きますから……押さ、押さないでェ~~」
「遠慮するな。『蒼穹の昴』、よく頑張ったよなー、感謝するよ。ほら、見てみろ。この青空、これこそが俺たちの夢見た、中原の大空だ」
「は~。そ~ですね~。おっきいですね~~きれいですね~~」
万里の長城の櫓は修羅場と化した!?
彼の体は小刻みに慄ふるえていた。おそらく2年余をかけた私たちの共同作業を思い出し、またこのさきも長く続く物語への期待に、彼は武者ぶるいをしているのであろう、と私は思った。で、心なしかおよび腰の彼の腕をグイグイと引きずって、最初の櫓(やぐら)の頂上に立った。
「タ、タバコ喫いましょう」
と、櫓の中に入ったなり、彼は禁煙の貼紙も厭(いと)わずタバコを喫った。
「浅田さん。あの、ボク、実は……」
「いや。もう言い訳はやめよう。作品の至らなかった点は、ひとえに作者であるオレの責任である。ワッハッハ、さあ、行くぞ!」
と、櫓の出口からさらに先へと身を乗り出したとたん、さすがの私もひるんだ。尾根に沿ってほとんど直角に近い階段が落ちている。麓(ふもと)からはさほどには見えなかったが、万里の長城は目のくらむほどの急勾配の階段の連続だったのである。しかも城壁の左右は寒風吹きすさぶ千尋(せんじん)の谷であった。
ワアッ、と彼は絶叫した。
落っこちたのかと思って振り返ると、彼は手すりにしがみついて腰を抜かしていた。
「どうした」
「浅田さん。ボク、実は、実は……」
「実は女か」
「そ、そうじゃない。実は……」
「実はインポか」
「ちがう、ちがう」
「カツラ?」
「ちーがーうー。ほんとは、ダメなんです。高いところ、ぜんぜんダーメーなーのー!」
ふつうの小説家であれば、恩義理ある担当編集者の苦悩をおもんぱかり、督励しつつもと来た道を引き返したであろう。しかし、私はふつうの小説家ではない。
「そうか……そうだったのか。ではこれより彼方かなたの八達嶺(はったつれい)をめざす。長く険しい道ではあるが、辛抱せよ」
言うが早いか私はヒヤッホー!と叫びつつ編集者の肩を抱え、目のくらむような直角の石段を一気呵成(いっきかせい)に駆け下りた。
「わー! やーめーろー! こわいよー!」
「死のうなー、一緒に死のうなー!」
ここだけの話だが、私は子供のころイジメッ子であった。気の毒な編集者は涙とよだれでクシャクシャになりながら、私について来た。
数時間の後、私たちは八達嶺の頂きに立った。満洲の原野が、地平の彼方まで豁(ひら)けていた。長城のつらなりは、蒼穹の尽きる果てまで、はるかに続いていた。
「俺だって、こわいよ」
と、私は言った。
人間、こわいと思えば平らな道に一歩を踏み出すのもこわい。臆病者が手を取り合って長く険しい道を行く。
男の仕事とは、そんなものだろう。
(初出/週刊現代1997年1月18日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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