1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第23回。この回に登場する編集者をよく知っていますが、彼によると一番嫌な死に方は「生き埋め」だそうで、ちょっと想像するだけで、震えが来て、汗びっしょりになるそうです。
画像ギャラリー「閉所恐怖症について」
勘のいい編集者は逃げをうったが……
なにもとりたてて知人の身体的欠陥をあばこうとしているわけではないのだが、「方向音痴について」がウケ、「高所恐怖症について」がまたぞろ大ウケしたので、今回は「閉所恐怖症について」で行こうと思う。
この手合も、実は私の身近に実在する。かつては浅田某という売れない作家を発掘し、メジャー週刊誌にいきなり二ページの連載エッセイを書かせたというつわもの、近ごろでは長駆シカゴまで飛んで、あのマイケル・ジョーダンの独占インタヴューに成功したという辣腕(らつわん)編集者である。
名前は仮にI君、としておこう。
──と、例によってここまで書いたところで、彼は突然と身の危険を感じたらしく、私の取材を拒否した。
いきさつはこうだ。私はかねてより彼が「閉所恐怖症」であると知っていた。しかし具体的なエピソードは知らず、いじめたこともなかったので、彼を新年会と称して拙宅におびき寄せ、しこたま酒を飲ませて取材をしようともくろんでいたのである。もちろん話を聞くばかりではなく、準備万端「あかずの間」「暗黒のトイレ」「鍵のかかる屋根裏」等の実験装置にもおさおさ怠りなかった。
しかし、日ごろの行状は悪いがナゼか勘の良いI君は、予定日の寸前に私の企みに気付いた。どうやら「方向音痴について」と「高所恐怖症について」を読み、続けて書かれるであろうわが身を予測したらしい。
で、急な仕事とかで拙宅における新年会はドタキャンとなった(注・現代用語にうとい中年読者のために。『ドタキャン』とは『土壇場キャンセル』の略である)。
かくて私の目論見は烏有(うゆう)に帰した。
ところが話は終わったようで終わらないのである。
検査に行った病院で得体のしれない恐怖感が!?
I君からの取材を断念した私は、ドタキャンにより日程もあいたことであるし、急遽脳ミソの精密検査を受けるため都内の大学病院へと向かった。
通読されていない読者のために説明を加えておくと、私は昨年の暮、地下鉄丸ノ内線車内において原因不明の失神をし、救急車に乗ったのである。脳溢血でもなし貧血でもなし、もちろんお得意の死んだフリでもなかった。年が明けたら至急精密検査を受けるよう、美人の救急女医から命ぜられていたのである。
幸い、版元「汐留屋」の大旦那が、かかりつけの病院を紹介して下さった。何でも順番待ちが1年半とかいうたいそうな検査だそうだが、『プリズンホテル』全4巻完結のご褒美(ほうび)に、無理を通して下さったのである。
ところで、ここだけの話だが、私は大の医者嫌いである。薬も嫌い、注射も嫌い、何よりも大病院の、あの冷ややかな閉塞感が大嫌いなのであった。嫌いというよりむしろ、私の体は病院そのものに対して生理的な拒否反応を表す。ジッと待合室に座っているだけで、腹が痛くなったり脂汗が出たりするのである。ナゼそうなるのかはわからん。しかし病院に入ると必ず、いても立ってもおられぬイヤな気分になる。
やがて、大旦那のかかりつけと覚しき、貫禄十分の大先生がやってきた。御自みずから外来手続をして下さり、1年半の予約を飛び越えて、私は日本最高レベルの脳検査を受けることと相成った。
検査室は別館の地下深くにあった。階段を降り、長い廊下を歩くほどに、私のうちなる拒否反応は次第に恐怖へと変わっていった。
いくつもの厚い扉を通り抜けるたび、閉塞感は確実に増して行く。それとともに得体の知れぬ恐怖感もヒシヒシとつのって行く。
「顔色があまり良くないですね。ご気分、悪いですか?」と、医者。
「いえ……何だかプレッシャーがかかっちゃいまして。あの、痛いとか苦しいとか、そういう検査じゃないですよね」
「大丈夫、ダイジョーブ。ちょっと窮屈なところに入って、30分ぐらいジッとしてるだけです。痛くも痒(かゆ)くもありません」
とたんに、私の足は動かなくなった。
「どうかしましたか?」
「え……い、いえ。何だかコワい感じがしたものですから……」
本当に背筋が凍えたのである。モシヤ、と思った。
考えてみれば、私は生来がワガママな自由人で、束縛というものを嫌う。窮屈な場所そのものを知らんのである。だとすると、そもそも私の病院なるものに対する拒否反応は、痛みや苦しみについてではなく、その束縛感、密室感に起因するのではなかろうか。
とりわけブ厚い最後の扉の前に、更衣室があった。そこで検査衣に着替えよという。ふと、宮沢賢治の「注文の多い料理店」などを思い出し、目の前がまっくらになった。
「あのう、30分もジッとしていなけりゃならないんですか……」
多忙にこと寄せて、私は時間を値切った。交渉事には自信があった。
「15分ぐらいにマカりませんか」
冗談だと思ったのか、医者はハッハッと笑った。
「あなたねえ、まともなら1年半も待たなけりゃならんのですよ」
それもそうだと、私は交渉をあきらめた。
いくら安全でも怖いものは怖い
扉が開いた。奥の真白な部屋に、巨大なカマボコが置いてあった。最新鋭の核磁気共鳴装置、MRIである。
スッと気が遠くなるのを、私はかろうじて踏みこたえた。
カマボコの板に横たわると、検査技師が手早く私の体を束縛した。
他人に何かをされるということがいやなのである。ベッドマナーですら、徹頭徹尾の能動派なのである。ジッとしたまま相手のなすにまかせるということは大嫌いであった。
しかし、かつて胃カメラを吞んだ折に、ハンパな状態で暴れて痛い思いをしたことがあった。医者の手を振り払い、自分でカメラを挿入しようとしたところ、ものすごく痛かったのである。
そのときのことを思い出して、私はなすがままの恐怖と屈辱によく耐えた。
やがて体が固定され、顔の上に小さなカマボコ型のネットが被せられた。
「……ええと、20分、じゃダメですか?」
「30分かかります」
「じゃあ、25分」
「ダメダメ。はい、始まりますよ。大きな音がしますけれど、動かないで下さいね」
「大きな音……?」
「ガー、とか、バリバリッ、とか。でも安全ですからね」
安全うんぬんという問題ではないと私は思った。安全性が恐怖感を拭い去るのであれば、世の中の遊園地は立ち行かぬ。ディズニーランドもユニバーサル・スタジオも倒産する。
安全と恐怖は別物だ、と思う間もなく、私の体は巨大カマボコの胎内に吸いこまれて行った。
暗いのである。狭いのである。身動きがとれんのである。
おかあさん、と私は呟き、6人の編集者の名前と、8人の女の名前をたて続けに呼んだ。ついでに妻の名を呼び、題目を唱えた。
機械は真白な闇の中に止まった。
死のごとき静寂のあとで、突然ドリルで脳ミソを掘削するような大音響が襲いかかった。
ギャー、と私は叫んだ。とたんにマイクの声。
「動かないで下さい。大丈夫、大丈夫。コワくないですよー」
コワくないかどうか、どうしておまえにわかるのだ。コワいのは俺だ、と私は思った。
耳をつんざく大音響は、本当に30分も続いた。たしかに痛くも痒かゆくもなかった。ただし、コワかった。狭い所は、コワい。
検査室からよろぼい出たとき、もう他人の欠嵌を責めるのはやめようと思った。
読者の皆様へ。いろいろご心配をおかけいたしましたが、検査の結果は何ら異常なく、脳ミソにも心臓にも毛が生えているということでありました。
自信を持って、死ぬまで原稿を書かせていただきます。
(初出/週刊現代1997年2月15日)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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