1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第26回。90年代からベストセラーを連発し、今や「浅田次郎」といえば、誰もが知る文壇の巨星だが、このペンネームの由来には聞くも涙の物語が……。
画像ギャラリー「由来について」
阿佐田哲也と新田次郎の合体!?
ペンネームの由来について、よく訊ねられる。
そんなことはどうでもよかろうとは思うのだが、みなさん小説家のペンネームにはさぞかしミヤビな出典があると想像するらしく、この素朴な質問は跡を絶たない。
デビュー当初は、こうした質問をされると一人前の作家になった感じがして嬉しくなり、長々と由来を語ったものである。しかしそのうち、ばんたび同じことを訊かれるので辟易してしまい、「あててみろ」と言うことにした。
酒席の無聊(ぶりょう)を慰めるのには、けっこう面白い。かつてある推理作家の回答に、こういうものがあった。彼はグラスを舐めながら10分も沈思したあげく、こう答えたのである。
「わかりました。浅田さんがデビューする直前、すなわちペンネームを考案しようとする直前に、かのアサダ哲也氏、新田ジロウ氏が物故されておられますね。つまり、その二つの名前の複合です。ハッハッ、どうです。図星でしょう」
私はたちどころに頭突きをくれ、首を絞めた。いやしくもこの私が、先人の文名にあやかるような安易なマネをするはずがないではないか。
ひよわな推理作家を失神させたのち、対面に座る体育会系編集者に回答を迫った。彼はグラスを置き、早くも受身の態勢をとりながら答えた。
「はい、お答えします。『浅田次郎』という名前には、どことなく俠気を感じます。おそらくはデビュー前、すなわち渡世人のころにお使いになっていた二ツ名ではありますまいか」
私はたちまち必殺の右ストレートを繰り出し、未熟な編集者がとっさに身をかわすところを狙って、自衛隊じこみの徒手格闘術「左面打ち」をカウンターぎみにヒットさせた。
「バーカ、考えてもみろ。本名がヤバくて使えねえからペンネームを考えたんだ。もっとヤバい二ツ名をわざわざ使うわけねえだろ」
これは本音である。デビュー当時、私がもし本名またはかつての偽名等を使用していたなら、少くとも命の保障はなかった(注・平成8年7月現在、過去の案件はすべて和解・示談・時効等が成立している。念のため)。
不心得者に対してはとりあえず肉体的打撃を与え、しかるのちに理路整然たる説諭をたれるというのは、旧軍以来わが陸上自衛隊のうるわしき伝統である。男子の教育とはすべからくかくあるべしと、私は信じている(ちなみに、女性作家および女性編集者に対しては、かたい抱擁ののちやさしく説諭をたれる)。
で、とりあえず痛打によってシャツキリした推理作家と編集者に、私はわがペンネームのおごそかな由来を語った。
「いいか、心して聞けよ。そもそもペンネームというものにはだな、数種の付け方のパターンがある。まず第一に雅号タイプ。鷗外、漱石、荷風、などというものだ。『浅田次郎』は全然ミヤビな感じがしないから、これでないことはわかるよな。次に、モジリ・シャレ型というのがある。二葉亭四迷、江戸川乱歩、などというものだ。これもまったく関係ない。さて次に、恩師拝領型、というものがある。三島由紀夫がそれだ。新人賞の選考委員からいただいたとか、尊敬する作家の一字を拝借したとか、この手合はけっこう多い。残念ながらオレは無学歴だし、新人賞に入選して華々しくデビューしたわけでもないし、師匠もいないから、これもちがう──」
元来、私の説教はフリが長い。長すぎて本題を喪失することしばしばなのである。
「えーと、なに話してたんだっけ」
「ハイ、ご自身のペンネームの由来について」、と編集者。
「ああそうだ。そうだったな。そもそもペンネームというものはだ、多くの場合『正体かくし』『変身願望』『出世祈願』等の、甚(はなは)だ不純な目的で考案されるものなのだ。その点オレは、ウソとかテライとかミエとかが嫌いな性分であるから──」
「あのう、なるたけ簡潔に言っていただけますか。しつこいのは文体と顔だけにして下さい」、と推理作家。
鼻ヅラに正確な裏拳を見舞ったあと、私はようやく本題に入った。
初投稿から苦節17年目の作品の……
「よく聞け。『浅田次郎』というきわめて簡明かつ任意的かつどうでもよさそうなペンネームには、実は聞くも涙、語るに堪えぬ深く悲しい由来があるのだ。オレはな、かつて投稿魔であった。わずか13歳のとき初投稿した『小説ジュニア』(注・昭和40年代~50年代にかけて集英社が発行していた少年少女向小説誌)がボツ。続けて河出書房新社に持ちこんだ原稿もボツ。以来、不良高校生時代から30を過ぎるまで、群像、文學界、新潮、文藝、すばる、オール讀物、小説現代と、およそ目に触れる限りの新人賞に応募したのだが、ことごとくボツッた。わかるか、この間ボツとなって哀れ音羽の煙、紀尾井町の塵と消えた原稿用紙は三千数百枚にものぼる」
「それ、自慢ですか? 自嘲ですか?」
「うむ。自慢であったのは半分ぐらいまで。以降は自嘲となり、自慰となり、しまいには自虐であったな。ところがだ、石の上にも三年というか、無理を通せば道理ひっこむというか、一念岩をも通すというか、30歳ぐらいのとき、群像新人賞の予選を通過した」
「オオッ! 快挙ですねえ」
「そうだ。キサマのようなシンデレラ・ボーイには決してわかりはすまい。初投稿から苦節17年目、惜しくも最終選考には残らなかったものの、例えていうならオレはそのとき、愛する人の手を握った気がした。わかるか、わかるまい。17年も恋いこがれた人の手を、オレはやっと握ることができた。泣きましたよ。感動しましたよ。その温もりだけを心に刻んで、ジジイになるまで頑張れると思いましたよ」
「……なるほど、まさに自虐の世界ですね」
「さよう。で、さっそく事務所を飛び出し、ベンツを駆って音羽の講談社へと向かった」
「ベンツ、ですか──ちょっとイメージが浮かびませんけど」
「ま、いいじゃないか。ともかく嬉しくって、有難くって、講談社の門前に車をつけてだな、路上に気をつけをして、深々とコウベを垂れた」
「もしや当時、パンチパーマではなかったですか? だとすると──」
「ふむ。たちまち門前にはガードマンが集まって来たな。おそらくは新手のいやがらせだと考えたのであろう。何の用かと訊かれたので、お礼参りですと答えると、彼らは何を勘ちがいしたものか全員がスッと青ざめた。不用意な発言であったと今も反省している……ところで、何の話だったっけか」
「ペンネームの由来について、です」
「ああそうだ。そうだったな」
「なるたけ簡潔に願います」
「つまり、だ。早い話が、その予選通過作品の主人公の名前が、『浅田次郎』というのだ。原稿はやっぱりボツになった。だがオレは、どうしても、その主人公の名前を音羽の煙とするのは忍びなかった。そのぐらい嬉しかったから……」
「あの、浅田さん。何も泣くことないじゃないですか」
「……直木賞も、ボツになってしまった」
「まあ、気持ちはわかりますけどねえ。ところでその群像新人賞の予選通過作品、いったいどういう物語だったんですか。すげえ思い入れがあったようですけど」
「あれは傑作であった。まあ聞け──ヒットマン『浅田次郎』が八年の服役をおえて出所する。ところが企業化した組織には受け入れられず、流れ流れてとある港町へ。そこで初恋のオカマと再会し、焼けボックイに火がついて、霧の波止場で燃えるようなくちづけをかわすのだ。しかるのち再び組織の密命を受けて拳銃を執る次郎。いけない、それだけはやめて、どうしても行くというのならそのコルトで私を殺してからにして、とすがりつくオカマ……」
気が付くと二人の姿は消えていた。
ペンネームの由来について作家に訊ねるのは、あまり良いことではないと思う。
(初出/週刊現代1996年8月24日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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