浅田次郎の名エッセイ

「勇気凜凜ルリの色」セレクト(30 )「ふたたび嘔吐について」

1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第30回。前回の同テーマから2年半後、乗り物酔はすっかり治ったはずだった。が、好事魔多し。またして船が鬼門に!

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ふたたび嘔吐について

弱点を克服し、豪華客船パーティへ

本稿を通読なさっていない読者のために、この傍若無人なタイトルの説明をしなければならぬわが身はつらい。

サルトルは「おうと」と読むが、浅田次郎の場合は「げろ」と読む。

公序良俗上、タイトルにルビを振ることはさし控えたが、つまり今回は「ふたたびゲロについて」である。

折あしく食事中の方、二日酔ですでに気分の悪い方、病院で点滴を受けておられる方、もしくは生理中の方などは、どうかのちほどお読みいただきたい。

私はしばしばゲロを吐く。胃袋は人並以上に頑健であり、精神的プレッシャーなどとは生れつき無縁の性格にもかかわらず、めっぽう乗物酔いをするのである。

それもなまなかのものではない。「アッ、気持ち悪ィ」と思ったら最後、声に出すこともトイレに走ることもできず、発作のごとくゲロッてしまうのである。

かつては後楽園遊園地の「魔法のじゅうたん」で吐き、八方尾根スキー場のゴンドラ上で吐き、演習中の自衛隊装甲車内で吐き、ユナイテッドのファースト・クラスでも吐いた(状況を知りたいという好事家の方は、既刊文庫『勇気凜凜ルリの色』第1巻P54を参照されたし)。

ところが有難いことにはこの数年の間に、私の吐き癖はだいぶ治癒された。理由は良くわからぬ。齢(よわい)45にしてようやく幼児期のトラウマから解放されたのか、細胞の老化とともに体質が変化したのか、あるいは取材等であちこち飛び回る機会が増えて、多少は慣れたのか、おそらくはそれらの複合であろうと思うのだが、めったに吐くことがなくなった。

近ごろでは、車はまず大丈夫、飛行機はよほど悪天候でなければさらに大丈夫である。旅は楽しく、乗物は快適なものであると、ようやく知った。

過日、デビュー以来いろいろとご縁のある版元「宝島屋」さんが粋な趣向の宴会を催し、そのご招待にあずかった。

何でも海外航路用の超豪華客船を一艘仕立て、大島一周の船上パーティをやろう、というわけである。ただでさえ宴会好きの私が、この派手な企画に欠席するはずはない。

二つ返事で踊りあがるのも何なので、出席をためらうフリをした。このあたりの呼吸はけっこう難しい。近ごろ「タダメシ食いの浅田」「お祭り次郎」「でたがりの浅」等の悪評が出版業界に飛びかっていることを、私は良く知っている。どうしても「乞われてシブシブ行く」というポーズを取りたかった。

もともとお祭り的企業コンセンサスを持っている宝島屋は、その点私ごのみの版元である。出版界の華と言っても言いすぎではない。したがって担当者はこのあたりの呼吸を良く心得ており、「お誘いは有難えが、忙しいもんでご勘弁」「へい、そりゃ重々承知の上で。そこを何とかひとつ」「そうかい、そこまで言うんなら」てなわけで、私は内心欣喜雀躍(きんきじゃくやく)して晴海埠頭へと駆けつけたのであった。

当日は雨であった。

競馬場から埠頭へと向かうタクシーの中で、私はまったく忘れていた重大なことに気付き、暗澹(あんたん)となった。

車や飛行機には酔わなくなった。魔法のじゅうたんやティーカップに乗ることは、もうないであろう。もちろん装甲車も。

しかし、船についてはまだわからない。もともと船は、車や飛行機にまさるゲロの天敵なのであった。しかも天候は雨。東京湾内はさほど心配にはあたらぬとも、大島を1周して翌朝帰港する長旅である。太平洋に出るのである。

商船三井客船が誇る栄光のパッセンジャーシップ「にっぽん丸」は、総トン数2万1903トン、船客定員600名の巨大客船である。五ツ星ホテルもかくやはと思われる船内に足を踏み入れたとたん、私はまさしく「大船に乗った気分」になった。

しかも案内された部屋は5階デッキのデラックス・ルームで、万が一気分が悪くなったらフカフカのベッドで眠ってしまえば良い。

悪魔の誘いに乗り、調子の乗った末

やがて船は600人の招待客を乗せて桟橋を離れた。飲めや唄えの船上パーティのあとには、数々のショーや催し物が用意されており、私は我を忘れてはしゃいだ。

そこまでは良かったのである。

ひと通り騒ぎおえて、そろそろ外海に出るころだし、部屋に戻って寝るべえと思ったころ、麻雀に誘われた。

言い出しっぺは匿名希望文芸評論家C木N雄氏であり、他のメンツは版元音羽屋の番頭T氏と駿河屋の番頭Y氏であった。

私自身の名誉のために言っておくと、断わるわけには行かぬ義理メンツであったC木氏には文庫本の解説を依頼しており、T氏は連載小説の担当編集者であり、Y氏の駿河屋からは1ヵ月後に第1短篇集が上梓される。

船上麻雀。考えただけで前ゲロが出そうになった。

たしかに義理はある。しかし義理で卓を囲んだのかというと実はマッカな噓で、内心これはおいしいと考えたのである。ついこの間まで度胸千両の鉄火麻雀をブッてきた私が、上品な業界で麻雀を覚えた彼らに負けることなど、毛ほどもあるまいと思った。

こうして翌る朝までえんえんと続く地獄が始まったのであった。

かつて何度かの対戦から、小説家はみな麻雀がうまいということは知っていた。日ごろ彼らと卓を囲んでいる評論家や編集者も、たぶん同レベルであろうという想像はつく。打ち始めてすぐに、どれも相当の打ち手であるとわかった。油断はならぬ。

事前に飲んだ酔い止め薬の効果もあって、気分はすこぶるよろしかった。しかし、夜も更けて船が外海に出ると、おそろしいことになった。巨大なゆりかごのようにゆったりと、卓が揺れ始めたのである。

それでも私には、(今日は大丈夫だ)という自信があった。むしろひそかに、(誰か酔わねえかな)と思った。下戸の私は1滴も酒を飲んではおらず、他の3人はみなすでに多少の酩酊をしている。

そこで一計を案じた。麻雀を打ちながら、「あ、吐きそうだ」「気持わるいよー」「ゲロ、出る」とか、さかんに言って、彼らのゲロを誘導しようと試みたのである。このように口で麻雀を打つのは、悪いバクチを打ってきた私の得意ワザであった。

作戦は効を奏した。対面(トイメン)に座っていたC木氏がまんまと私の言魂(ことだま)に冒され、ゲロッたのである。

「メン類はヤバいんだよな。あれ、そのまま出るでしょ。まるごと」

と、この殺し文句が効いた。私はパーティの席上、C木氏がヤキソバをたらふく食っていた光景を記憶していたのである。

「ち、ちょっと、ごめん」

 と、C木氏はトイレに走った。フフ、と私はほくそ笑んだ。他の2人も顔色が悪い。勝ったも同然と私は思った。

ところが、まずいことになった。「ウイッ」とよろめきながらトイレから戻ってきたC木氏は、何とも名状しがたい、酸っぱい匂いを漂わせていたのである。風向きのかげんでその残臭はモロに私の胸をうがった。とたんに私の咽(のど)に、前ゲロがこみ上げてきた。

「ヤキソバ、出ちゃった」

と、何ら悪意はなく、C木氏は言った。殺し文句であった。私自身、ヤキソバをしこたま食っていたのである。

「ち、ちょっと、ごめん」

私はたまらずにトイレへと走った。

その夜、船が伊豆大島を1周して晴海埠頭に接岸するまでの生地獄は、とうてい筆舌につくしがたい。

ふしぎなことに、ゲロッたとたんにC木氏はてんで正気になり、他の2人も酔うほどに船の揺れを忘れ、私1人が吐きながら身ぐるみ剝がれるというこの世の地獄を体験したのであった。

誰に何と言われようと、もう二度と船には乗らない。

たまさかの平穏におのれの正体を見誤ってはならない。他人への悪意は、天に向かって唾するようなものだ。

ゲロはさまざまのことを私に教えてくれた。

(初出/週刊現代1997年4月19日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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