浅田次郎の名エッセイ

「勇気凜凜ルリの色」セレクト(31)「強運について」

1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載。第31回は、不運と不幸のどん底にあった男が、浮上するきっかけをつかんだある出来事について……。

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強運について

その頃、私は「クスブリ」であった

何度も死にぞこねたのだけれど、一度も死んだことがない。

それとたぶん関係はあるのだろうが、クジ運はめっぽう強い。福引・抽選の類では、はなから当たるものだと思っており、実際巨額の金品にしばしばありつく。

こう言うと、時節がら読者の気になるのは、宝クジの成果であろう。

結論から言えば、100万円なら当たったことがある。嘘ではない。1億円ならまさか公言はしないが、100万円ならかまわんだろうと思い、ここに前後の状況を告白しよう。

ふつうこうした幸運は、人生の好調時にめぐってくるらしいが、私の場合はちがった。そのときの私は不運と不幸のどん底であった。不渡はとばすわ、悪事は露見するわ、交通事故で体はガタガタにされるわ、全く生きているのがふしぎなくらいで、結局ある怪しげな会社の飼い殺しになっていた。

業界で言うところの「クスブリ」である。てんで運に見放されて、張ろうが引こうがにっちもさっちも行かない低迷状態のことを、こう呼ぶ。基本的に生活や生命の保障がない業界人にとって、クスブリにまさる脅威はない。

いったんこの状態に陥れば、なかなか脱出することは難しく、へたにジタバタすれば命を落とすか大事件を起こすかに決まっている。しかも怖ろしいことに、業界の通説によればクスブリは伝染すると言われている。クスブリ・ウイルスなるものが実際に存在するかどうかは知らんが、思い当たるフシがないではない。

「あいつはクスブリだから、あまりつき合うなよ」と周囲から忠告をうけていたにも拘らず、さる関西系業界人と親しくメシを食ったりバクチを打ったりした結果、感染したらしいのである。ちなみにそいつは、発症後1年ともたずに死んだ。

ということは、私を面倒見ていると言いつつ債権回収のために飼い殺しにしていた社長は、ともかく勇気のある人なのである。なるたけ他の社員と接触しないように私を倉庫状の別室に隔離し、もちろんまともな案件には参加させず、コゲついた貸金の取り立てなんかをやらせていた。必然的にヤバい仕事をしなければならないのだが、まあ死にゃ死んだでいい、という感じであった。

クスブッた時にはなるべく動かず、絶対安静にして運気の回復を待つしかない。私は現物弁済のガラクタが詰まった倉庫の中で、日がなゴロゴロとし、たまに夜討ち朝駆けに出てはわずかな債権を集めて回った。何とか死なないように、何とか事件を起こさぬように日々をしのぐのが精一杯であった。

私自身の債権をゴッテリ握っている社長は、最低生活費以外にはビタ一文支給してくれない。昼メシはガマンすりゃいいが、交通費がないと出社できないと言うと、それすらももったいないとばかりに、ボロボロのミニカをくれた。

たぶん借金のカタに取ってきたものだろうが、どうあがいても法定速度以上は出ず、ブレーキもほとんどきかぬひどい車だった。リクライニングシートが真うしろに倒れたままなので、運転はひどく疲れた。走行中にうっかり寄りかかるとたいへんなことになった。

きっかけは小田急線の開かずの踏切だった

そんなある日、私はオンボロミニカに乗って出社する途中、世田谷通りの渋滞にハマッた。ブレーキのない車は走っていても疲れるが、渋滞中はもっと疲れる。アクセルとサイドブレーキの微妙な操作をくり返さねばならないのである。

遅刻は体罰と決まっていた。そこで私は、多摩川を渡ると、かって知ったる抜け道を選んだ。成城の急坂はパワー不足で登れないから、喜多見駅前の踏切を渡ることにした。これはバクチであった。なぜかというと、悪名高き小田急の過密ダイヤにより、その踏切はいったん閉まったら最後20分も開かないのである。

案の定、踏切の手前にさしかかったとき、信号が鳴った。私の前はいかにもイチかバチかという感じのするダンプカーであったので、よしイケると思った。ところが、一気に突破するかと思いきや、そいつはプスンと止まってしまったのである。これで私の遅刻は決定した。必死でサイドブレーキを引いた私は、全然因縁をつける筋合ではないのだけれど、とりあえず頭に来て車を降りた。

タラタラ走ってんじゃねーよ、タコ、と言ったかどうかは忘れたが、近くまで寄ってフト見ると案外強そうなやつだったので怖いからやめた。

喜多見駅改札口の人々はうろんな目付きで私を見ていた。ひっこみのつかなくなった私は、挙げかけた手で頭をかきながら自販機でも探すふりをした。と、そのとき駅前の第一勧銀の宝クジボックスが、カラカラとシャッターを開けたのである。

暗黙の定めによれば、クスブリは決して積極的に生きてはならず、バクチに手を出してはならず、りきんでへもしてはならない。いわんや宝クジを買うなど、金をドブに捨てるのも同じである。

しかし周囲の冷たい視線に圧迫された私は、やむなく2000円の有金をはたいて、10枚の宝クジを買ったのであった。それは「その場で当たるラッキー7」とかいうふれこみの、スピードくじであった。

7が3つ揃えば……

30分おくれで出社し、社長に回し蹴りをくらったあと、私は倉庫兼隔離室に閉じこもった。昼になってもメシが食えないので、なりゆきとはいえ無駄づかいをしたことを反省しながら、スピードくじなるものを取り出した。

銀色のマークが六つ並んでいる。その下には数字が隠されていて、「7」が3つ揃えば100万円なんだそうだ。そんなことはどうでも良かった。せめて「2」が揃えばタバコが買える。たぶんムリだろうけど「5」が3つ出ればメシが食える。「とんがれ、とんがれ」とか呟きながら、マークをこすった。

と、いきなり出たのである。

しばらく凍結した。どう見ても「7」が3つで、どう読み返しても「7」が3つ揃えば1等100万円、と書いてある。

おりしもケバい女子社員が倉庫の隅でコピーを取っていた。私が宝クジをつまんで幽鬼のごとく背中に立つと、女子社員はいきなりパンツを脱がされたぐらいに愕いた。

「待て。何もしない。これを見てくれないか」

クスブリの何たるかを知っているらしい女子社員は、口を押さえながら宝クジを手に取り、「ああっ!」と、凍結した。

「言うなよ、誰にも言うなよ」

「言わないわ、ゼッタイ言わないわ」

命ばかりはお助け、という感じで女子社員は出て行った。

私はその足で最寄りの第一勧銀(現みずほ銀行/編集部注)へと走った。何しろ「その場で当たる」スピードくじなのである。銀行に行き、「宝クジ、当たっちゃったんだけど」と言うと、窓口の女も「ええっ!」と目を剥いた。胴元がアセるぐらいなのだから、このバクチはかなりボロいのだろう。

ご多分に洩れず応接室に通され、モミ手をした年配の行員が「おめでとうございます」と言うので、「ありがとうございます」と答えた。かつてそれほど心のこもった挨拶をかわしたことはなかった。

行員は定期がどうの、お通帳がどうのとわからんことを言った。何だか支払いをしぶるノミ屋のような気がして激怒した私は、一方的に権利を主張して100万円の現金を揃えさせた。

もしかしたら帰りに車にはねられるかもしれないので、用心しいしい社にもどった。社内はてんやわんやの大騒ぎだったのである。女子社員がバラしたのであった。

「おめでとう!」と、債権者の社長は叫んだ。ついつい「ありがとう!」と、債務者の私も叫んだ。

こうして100万円は右から左へと消えたのだが、べつに悔やむほどのことではなかった。その一件をしおに、私はクスブリから脱出したのである。

たかだかの当籤金が人生を変えることはない。ただし、確かな道しるべではある。

(初出/週刊現代1994年12月24日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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