ずっと“ヤマハ”にこだわり続ける 創業者・川上源一の言葉 その自信が熟成したのか、23歳の年、1975年春のヤマハ音楽振興会主催による『第9回ポピュラーソングコンテスト』に出場、「傷ついた翼」で入賞。今度はレコード会社の…
画像ギャラリー国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。2022年の年末から23年の年始にかけて紹介するのは、シンガー・ソングライターの中島みゆきです。1975年にシングル「アザミ嬢のララバイ」でデビュー。以来、「時代」「ホームにて」「わかれうた」「世情」「ひとり上手」「夜曲」「悪女」「ファイト!」「つめたい別れ」「二隻の舟」「空と君のあいだに」「地上の星」など数多くの名曲を長きにわたって世に送り続けています。「日本において、70年代、80年代、90年代、2000年代と4つの世代(decade)でシングルチャート1位に輝いた女性アーティストは中島みゆき、ただ一人」(公式サイトより)。第1回では、筆者がインタビューで本人から聞いた“デビュー辞退”の興味深い挿話です。その理由とは―――。
新曲「倶に」から感じた“連帯”の大切さ
2022年12月14日、中島みゆきの通算47枚目となる両サイドA面シングル「倶(とも)に/銀の龍の背に乗って」がリリースされた。「倶に」は、吉沢亮が主演する月9ドラマ『PICU 小児集中治療室』の主題歌だ。ファンの間ではお馴染みの「銀の龍の背に乗って」は、12月16日公開の映画『Dr.コトー診療所』の主題歌となっている。2曲とも期せずして医療関連作品というのも興味深い。
新曲となる「倶に」は、北海道を舞台にしたドラマ『PICU』の主題歌だが、長く続くコロナ禍の中を辛抱強く生きてきた日本人に勇気を与えるメッセージ・ソングにもなっている。個人的には“倶に走りだそう/倶に走り継ごう 生きる互いの気配が ただひとつだけの灯火”という歌詞に感動した。ミレニアル世代やZ世代の若者にとっては、この歌詞のような“連帯する”、“連帯しよう”という呼びかけは、もしかしたら白々しいと受け止められるかも知れない。
だが、そういった世代でも、例えばサッカーのワールドカップでは、日本を応援するという1点で連帯できたではないか。閉塞感が覆いつくす現在の日本には、改めて皆が連帯し、この国を良い方向に進めようという気概が必要なのではないだろうか、そう中島みゆきは問いかけている気がする。
「自信がなかったから」
中島みゆきは1952年2月23日、札幌市に誕生した。父は産婦人科医で、幼かった彼女は父の仕事の都合上、岩内、帯広、山形などを転々として育った。幼い頃からラジオから流れる音楽が好きで、ギターを弾くようになるとオリジナル曲も作るようになった。高校3年生の時には、文化祭で初めてステージに上がり、「鶇(つぐみ)の唄」というオリジナル曲を歌っている。大学は札幌の藤女子大学に進んだが、北海道大学にボーイフレンドが在学していたこともあって、同大学のフォークソング部のメンバーと交流し、歌うようになった。
1972年、「全国フォーク音楽祭全国大会」に出場、入賞を果たした。「あたし時々おもうの」というオリジナル曲を歌ったのだが、大会の後、レコード会社からデビューの誘いを受けた。しかし彼女は、自分の曲、歌唱力がプロのレベルに達していないとしてこの誘いを断っている。
普通ならコンテストに応募し、出演する権利を勝ち取り、入賞までしたのだから、デビュー目的であっても不思議ではない。それなのにデビューの誘いを断る。学業のこともあったのだろうが、中島みゆきというミュージシャンは、最初から完璧を求めていたことが伝わる。ごく初期に筆者がインタビューした時、“もし、私の曲を聴いてくれる人がいるとしたら、その人たちが満足するものを届けたい。デビューの話をお断りしたのはまだ自信が無かったからです”と語っていた。
ずっと“ヤマハ”にこだわり続ける 創業者・川上源一の言葉
その自信が熟成したのか、23歳の年、1975年春のヤマハ音楽振興会主催による『第9回ポピュラーソングコンテスト』に出場、「傷ついた翼」で入賞。今度はレコード会社の誘いを断ることなく、キャニオン・レコードから「アザミ嬢のララバイ」でデビューした。中島みゆきはデビュー以来、ずっと“ヤマハ所属”を続けている。
ヤマハ音楽振興会は、日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)の第4代社長で、エンジンやオートバイなどで有名なヤマハ発動機の創業者でもある故川上源一によって、1966年に設立された。筆者はヤマハ音楽振興会が主催し、三重県にあるリゾート施設「合歓(ねむ)の郷」で開催されるJOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)のオブザーバーとして、1980年代中期に何度か招かれた。
その打ち上げには川上源一が登場し、出席者と会話していた。筆者も川上源一と話す機会があり、中島みゆきのことも話をした。その折、川上源一は“中島みゆきをよろしくお願いします。彼女は私の娘のひとりみたいな存在なのです”と語っていたのを思い出す。
その意思をくんだのだろう、中島みゆきはヤマハ音楽振興会の理事に名を連ねている。中島みゆきほどのビッグネームともなれば、高額で移籍を誘うプロダクションがあってもおかしくない。それでも、デビュー以来、ずっと“ヤマハ”にこだわり続ける中島みゆきに、人としての義理の通し方を感じる。目をかけてくれた人は裏切らない。それは中島みゆきの思う“人間の条件”なのだと思う。
岩田由記夫
1950年、東京生まれ。音楽評論家、オーディオライター、プロデューサー。70年代半ばから講談社の雑誌などで活躍。長く、オーディオ・音楽誌を中心に執筆活動を続け、取材した国内外のアーティストは2000人以上。マドンナ、スティング、キース・リチャーズ、リンゴ・スター、ロバート・プラント、大滝詠一、忌野清志郎、桑田佳祐、山下達郎、竹内まりや、細野晴臣……と、音楽史に名を刻む多くのレジェンドたちと会ってきた。FMラジオの構成や選曲も手掛け、パーソナリティーも担当。プロデューサーとして携わったレコードやCDも数多い。著書に『ぼくが出会った素晴らしきミュージシャンたち』など。 電子書籍『ROCK絶対名曲秘話』を刊行中。東京・大岡山のライブハウス「Goodstock Tokyo(グッドストックトーキョー)」で、貴重なアナログ・レコードをLINN(リン)の約400万円のプレーヤーなどハイエンドのオーディオシステムで聴く『レコードの達人』を偶数月に開催中。最新刊は『岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門 音楽とオーディオの新発見(ONTOMO MOOK)』(音楽之友社・1980円)。