ハル・デヴィッドが作詞を担当 アルバムのクレジットを読むと作曲者がバート・バカラックと知った。そこからぼくはバカラックのフリークとなり、彼の作品を片っ端から集めて聴くようになった。作者にバート・バカラックの名があれば、即…
画像ギャラリー国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。2月8日に老衰で亡くなったバート・バカラック(1928~2023年)は、映画『007カジノ・ロワイヤル』(1967年)の主題歌「恋の面影(The Look of Love)」や、映画『明日に向って撃て!』(1969年)の主題歌「雨にぬれても(Raindrops keep Fallin’ On My Head)」、カーペンターズの「遥かなる影(Close To You)」(1970年)、などで知られるアメリカの作曲家です。世界中のミュージシャンに影響を与えたポップスの巨匠の魅力とは―――。
バカラックのメロディーは、どこかで耳にしているはず
バート・バカラックが2023年2月8日、94 歳でこの世を去った。年齢的には大往生と言えるかも知れないが、リアルタイムで彼の音楽に慣れ親しんできた一ファンとしては淋し い限りだ。
音楽はあまり聴かない、あるいは音楽に明るくないという方でもバート・バカラックの作品を何らかの形で耳にしているはずだ。あえて選んで聴いていなくとも 自然に耳にしていると思う。映画『アルフィー』(1966年)の主題歌、『007カジノ・ロワイヤル』(1967年)、『明日に向って撃て!』(1969年)などといった1960年代の名画はバート・バカラックが手掛けていた。あるいは1970年代、日本で最も売れた洋楽ミュージシャンであるカーペンターズもバート・バカラックの手による「遙かなる影(Close To You)」を歌っている。
ぼくのような専門職やコアな音楽ファンはレコードやCDを手にすると、必ずそこに記された情報~クレジットを入念に読む。クレジットから音楽世界は広がる。例えばAというミュージシャンのアルバムが手元にあるとしよう。そのAのアルバムクレジットを見たら、Bという人が作曲している。Cという人がギターを弾いている。するとBという人の他の楽曲を聴きたくなったり、Cというギタリストのアルバムを聴いてみたくなる。こういった知見の広がりが音楽ファンの醍醐味なのだ。いわゆる音楽を深掘る作業だ。
ぼくが音楽に強い興味を持ち始めた1950年代後期から1960年代中期あたりまでは、ラジオが音楽に接する主要メディアだった。ラジオで何回もかかる楽曲が気に入るとシングル・レコードを購入する。アルバムは高嶺の花だった。シングル・レコードでさえ、自由に好きなだけ買えるのはごく一部の裕福な子供たちだけだった。
名曲「涙でさようなら」
ぼくがバート・バカラックの曲を初めて好きになったのは、1965年、15歳の年だった。ウォーカー・ブラザーズというアメリカからイギリスに渡って成功した3人組の「涙でさようなら(Make It Easy On Yourself)」という曲がきっかけだった。イギリスのシングル・チャートでNo.1に輝いた名曲だ。
但し、ぼくは当時、この曲がバート・バカラックの作品としては認識していなかった。ただ、ひたすら良いと思っていただけだった。当時の音楽文化には深掘るという作業はほとんど無く、ラジオでもせいぜい全米や全英のシングル・チャートでNo.1になったと情報を伝えるくらいだった。ちなみにプロデューサーがウォール・オブ・サウンドの生みの親、フィル・スペクターだったと知るのもしばらくしてからのことだ。
次にバカラック作品にはまったのは18歳1968年のことだ。アレサ・フランクリンの「小さな願い(I Say A Little Prayer)」を聴いた時だ。その頃のぼくは、いっぱしの不良少年で毎日のように夜の街に繰り出し、一夜の恋を重ねていた。それは人生からの逃避行であり、独りになると自己嫌悪の嵐に常に襲われていた。そんな時、「小さな願い」は心の救いとなる曲となった。
その頃には家を出てアルバムを買うくらいの余裕があったので、米軍のPXで「小さな願い」が収められた『アレサ・ナウ(Aretha Now)』をすぐに購入した。「小さな願い」はその前年、ディオンヌ・ワーウィックのヒットとして知っていたが、ぼくにはアレサ・フランクリンの ヴァージョンの方が好みだったと今は思う。
ハル・デヴィッドが作詞を担当
アルバムのクレジットを読むと作曲者がバート・バカラックと知った。そこからぼくはバカラックのフリークとなり、彼の作品を片っ端から集めて聴くようになった。作者にバート・バカラックの名があれば、即購入した。ディオンヌ・ワーウィック、ペリー・コモ、シュレルズ…。
数々のレコードを聴いてゆくと、バート・バカラックの生み出すメロディーには、彼だけの独自のテイストと大衆性~ポップ・フィーリングがあることに気付いた。バカラックならではの魅力がどの曲にも埋めこまれていることに。そして、バート・バカラックの作品には常にハル・デヴィッド(1921~2012年)が作詞を担当していることもクレジットから判明した。
1960年代、まだ音楽情報は今のように充実していなかった。それでも何とか資料を漁ってゆくとバート・バカラック&ハル・デヴィッドのコンビには、現在でいうロールモデルがあることにようやく到りついた。その名は ジェリー・リーバーとマイク・ストーラー。しかもこのコンビの作品「スタンド・バイ ミー(Stand By Me)」、「ハウンド・ドッグ(Hound Dog)」」、「監獄ロック(Jailhouse Rock)」などはぼく好みの曲でふたりの名を知らずに耳にしていたのだ。
ジェリー・リーバーがコーラス・グループを紹介
さらに調べに調べてゆくと1961年のドリフターズのセッションでスタジオの中心にいたジェリー・リーバーから3人のコーラス・グループを紹介されたことが分かった。
その3人とはシシー・ヒューストン、テルマ・ヒューストン、ディオンヌ・ワーウィック。バート・バカラックはその中からディオンヌ・ワーウィックの声に魅力を感じ、彼女をコーラス・グループから引き抜くことをジェリー・リーバーから許可を得た。結果、ディオンヌ ワーウィックは「遥かなる影」、「サン・ホセへの道(Do You Know The Way To San Jose)」などの伝導師となった。ちなみに、シシー、テルマも後にソロ・ミュージシャンとして成功するのだが、特にシシーはホイットニー・ヒューストンの母としても有名になるのだが、当時はそんなことは知る由もなかった。
今ならネットを探せば情報などたやすく入手できる。50年以上前は、そんなことは無かった。数少ない情報を当たり、得た情報からまた次の情報へと至る。そんな音楽の深掘りを10代だったぼくに教えてくれたひとり、それがバート・バカラックだった。
岩田由記夫
1950年、東京生まれ。音楽評論家、オーディオライター、プロデューサー。70年代半ばから講談社の雑誌などで活躍。長く、オーディオ・音楽誌を中心に執筆活動を続け、取材した国内外のアーティストは2000人以上。マドンナ、スティング、キース・リチャーズ、リンゴ・スター、ロバート・プラント、大滝詠一、忌野清志郎、桑田佳祐、山下達郎、竹内まりや、細野晴臣……と、音楽史に名を刻む多くのレジェンドたちと会ってきた。FMラジオの構成や選曲も手掛け、パーソナリティーも担当。プロデューサーとして携わったレコードやCDも数多い。著書に『ぼくが出会った素晴らしきミュージシャンたち』など。 電子書籍『ROCK絶対名曲秘話』を刊行中。東京・大岡山のライブハウス「Goodstock Tokyo(グッドストックトーキョー)」で、貴重なアナログ・レコードをLINN(リン)の約400万円のプレーヤーなどハイエンドのオーディオシステムで聴く『レコードの達人』を偶数月に開催中。最新刊は『岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門 音楽とオーディオの新発見(ONTOMO MOOK)』(音楽之友社・1980円)。