タドン顔はいかにピンチを切り抜けたのか 私の顔はタダでさえおかしい。そのおかしい顔の上半分が、ビビッドでブリリアントでシルキーなハゲのまんま、下半分が炭化している。タドンがサイン会をやったほうがまだマシだと私は思った。 …
画像ギャラリーバブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第68回は「モチ肌について」。
きっかけはスキー場での油断だった
自分で言うのも何だが、お肌には自信がある。
体育会系の所産か、はたまたサウナ効果か、日に2度3度という風呂好きのせいか、ともかく46歳のオヤジにしては世にも稀まれなるモチ肌なのである。
匂いのするものは何でも嫌いなので、ローションの類いは使ったためしがない。ヒゲ剃りのあとも石鹼でバサバサと顔を洗い、そのままほっぽらかしである。おまけにヘビー・スモーカーで、慢性寝不足の不摂生にもかかわらず、お肌だけはなぜかいつもスベスベ、ツヤツヤなんである。
ほっぺたを引っ張ると10センチぐらい伸びる。ポテッとした腹回りなんぞ、てめえで触っていても掌(てのひら)がここちよく、ケツも鏡で見てうっとりとするぐらいかわゆい。
そのかわり、ちょっとのことで傷がつきやすい。虫に食われればたちまち大げさに腫(は)れてしまい、そこいらにコツンとぶつけると、たいてい青アザになる。ために猫の爪痕だけはいつも絶えない。
余談ではあるが、若い時分からこのお肌の感触だけは必ずと言っていいほど女性にほめられた。ただし、テクをほめられたためしはない。ほめられているんだかバカにされているんだかわからんが、ともかく肌触りだけはよろしいのだそうである。
ところで、気の毒なことにこのモチ肌は、ちかごろ満足にお天道様に当たっていなかった。朝早くパンチ君のおさんぽに出掛けたあとは書斎にたてこもり、たまの外出といえば夜の会食か新聞社の書評委員会で、週末の競馬もすっかり面が割れてしまってからは、太陽の降りそそぐパドックに立つということもできなくなった。
そんな私が、3日間もピーカンのスキー場におったのであるから、たまったものではない。
お肌のことなんか、全然考えていなかったのである。さしあたっての心配は昆虫のように退化してしまった両足をいかに折らずに過ごすかということで、第2の懸案は運動後の筋肉痛からいかに免れるかということであった。3日間、そのことばかりに心を摧(くだ)いていたのである。
かくて、とんでもない顔になってしまった。ただでさえナイーブなモチ肌は、情け容赦なくアルプスの紫外線に灼(や)かれ、こんがりローストを通り越してタドンになっちまったのであった。
雪灼けなんてナマナカなものではない。ヤケドである。しかもさらにまずいことには、頭部を保護するためにゲレンデでは終始毛糸の帽子を目深に冠っていたがために、眉の上にくっきりと陰陽の境界ができてしまったのであった。
このぶざまな顔をグラビアで紹介できぬのは無念である。はっきり言って、見られることは恥ずかしいけれど、見せられないのが無念なくらい、この顔はおかしい。
本稿でもしばしば書いている通り、私の頭は風船のようにデカい。しかもその巨頭がキッパリとハゲている。しかもしかも、そのハゲの巨頭が、ビビッドでブリリアントでシルキーなんである。
どうかそのあざやかな額が、一直線の陰陽で分かたれた顔というものを想像していただきたい。
てめえでも3秒とは見ておられぬほどおかしいのである。この顔をひとめ見て、猫も笑った。パンチ号は笑わずにサッと顔をそむけたので、こいつは礼儀を知っていると思ったら、後ろ姿の肩がふるえていた。
まあこんな顔になっても、めったに人前に出ることがないので問題はあるまいとタカをくくって帰宅したところ、スケジュールを見て慄然(りつぜん)とした。あくる土曜日曜と連続で、勇気凜凜ルリの色パート3『福音について』の出版記念サイン会が、都内と横浜の3ヵ所の書店で開催されるのであった。
タドン顔はいかにピンチを切り抜けたのか
私の顔はタダでさえおかしい。そのおかしい顔の上半分が、ビビッドでブリリアントでシルキーなハゲのまんま、下半分が炭化している。タドンがサイン会をやったほうがまだマシだと私は思った。
翌日は早起きをして、あれやこれやと手当てをした。熱い湯に顔をひたし、灼けた肌をこそぎ落とすように何度もヒゲを剃り、あげくの果ては軽石でこすってみた。多少はよくなったかと思いきや、ヤケドはさらに赤むくれてしまい、うんとおかしくなった。タドン変じて京劇の悪役であった。
そうだ、灼けていないブリリアントな肌を黒く染めてみようと思った。そこで額に白髪染めを塗りたくってみたら、ただの怖い顔になった。これでは笑いごとではすまされぬ。
いっそ開き直って、スキーウェアを着、毛糸の帽子を冠ってサイン会に臨むという手も考えた。『勇気凜凜』の読者に限定するのであればそれもよかろう。しかし発売後1年、いまだに奇跡の重版を重ねる『鉄道員(ぽつぽや)』90万読者がその姿を見れば、少なからず裏切りを感ずることであろう。むろん『蒼穹の昴』50万読者のために京劇の衣裳を着て登場するというのは、はしゃぎすぎの譏(そし)りを免れまい。
そうこう思い悩むうちに時間切れとなり、私は車に迎えられてサイン会場へと向かった。
ハイヤーの運転手さんだって笑ったのである。書店の通用口で私を出迎えた版元の担当編集者も販売部長も、ワッハッハと声を上げて笑ったのである。
気の毒なのは、ホストである書店員のみなさんであった。天下の紀伊國屋書店には矜持(きょうじ)がある。笑いを嚙みつぶす彼らの苦渋に満ちた表情には一様に、「これはタドンではない、昨年の直木賞作家なのだ」とおのれに言い聞かせる強い意志がみなぎっていた。
私は言いわけが嫌いである。あれこれと見苦しい言いわけをして誤解を避けるくらいなら、手間ひまかけずに腹を切って死んでやる。今は文弱の小説家ではあるが、かつては矜(ほこ)り高き陸上自衛官であったのだ。
しかし、このときばかりは言いわけをせずにはおられなかった。何となれば、版元の担当編集者は私の行動予定を随時把握しており、奇怪なる陰陽顔の来歴も知っているのであるが、書店の人たちやサイン会にいらした読者のみなさんは知らんのである。
かくかくしかじかと、私はこの顔のいわれについて、審(つまびら)かに語った。
さて、須臾(しゅゆ)ののちに私は、書店最上階のサイン会場に向かった。まずいことにそこは売場ではなく、ガラス窓からさんさんと春の陽射しの降りそそぐピロティーであった。しかも背後には白いパーティションが張りめぐらされており、肌の異様な黒さ、なかんずく額を横一文字に断ち割った陰陽の対比は瞭(あきら)かであった。白布を敷いたテーブルには、私の顔を寿(ことほ)ぐがごとく、春の花々が供えられてもいた。
すでに長蛇の列をなしていた読者の目が、いっせいに私の顔に向けられた。
席につくやいなや、私は書店の心配りに感謝をせねばならなかった。テーブルの端にハンドマイクが置かれていたのである。
「お待たせいたしました。これから浅田次郎さんのサイン会を始めさせていただきます。では浅田さん、ご挨拶をひとこと」
つまり私は、言いわけのチャンスを与えられたのである。まさに天の助けであった。
「えー、どうもお見苦しい顔を晒(さら)して申しわけありません。実は先日、スキーに行ってまいりまして、あとさきのことを考えずにハゲ隠しの帽子を冠っておりましたところ、連日よいお日和(ひより)で……」
こうして私は、すんでのところで窮地を脱したのであった。
笑いものになったのは同じだけれど、ことの顚末(てんまつ)を理解してもらえたのであるから、決して恥ではない。
「きょうのことは、〈週刊現代〉にちゃんと書きます」
と、私は言葉をしめくくった。
読者の喝采は温かかった。46歳の男のふしぎなモチ肌を、ひとつひとつの掌がぬくめてくれているような気がした。
ファンレターをたくさんいただいているのに、返事も出せなくてすみません。今は便箋よりも原稿用紙に字を書かなければならないので、あしからず。
(初出/週刊現代1998年4月11日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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