地下街に下りた途端に迷子に ここで話は秋のパリから春浅き中国東北地方へと飛ぶ。 ハルピン市は松花江のほとり、発展する中国の中にあっても今なお旧きよき満洲の面影をとどめる、美しい街である。このたびの取材旅行は、大連、瀋陽、…
画像ギャラリーバブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第69回は「ふたたび方向オンチについて」。
極度の方向オンチがなぜパリでは迷わなかったのか!?
才色兼備の辣腕編集者C女史が実はどうしようもない方向オンチであるという話は、かつて本稿に書いた。(勇気凜凜ルリの色第3巻・『福音について』所収)
その稿はたいそう評判がよく、あちこちに紹介されたり、ラジオで朗読されたりもし、ために女史の出版業界におけるイメージはあとかたもなく変質してしまったらしい。ああいうことは二度と書いてくれるなと泣くので、むろん続きを書く。
ところで、私は自分で言うのも何だが方向感覚には自信がある。金銭感覚と同じくらい自信がある。
かつては陸上自衛官として涯もない山川を跋渉(ばっしょう)し、除隊後は路頭に迷い続けておったので、ほとんど動物的におのれの座標とベクトルとを感知することができるのである。
この点については一種の特殊技能とも言ってよろしいかと思う。
当然、私にとって女史はいじめがいがあるのである。打ち合わせに際してはつとめて難しい街なかの喫茶店等を指定し、あるいは取材中に突然姿をくらましたりする。すると女史はたちまちパックマン状態になり、パニクリながら路上を右往左往する。これを巧みに携帯電話で操りつつ観察するのがたまらなくおかしい。
ところが、である。昨秋取材のためパリに同行した折、ふしぎなことが起こった。
当初の予定によれば、女史をサンジェルマン・ドゥ・プレあたりの雑踏に孤立させ、こっそり後をつけてやろうと思った。で、滞在中に何度も実行したのである。
しかしなぜか、女史は一度もパックマンにはならず、私より先にホテルに戻って、「勝手な行動は慎しんで下さい。よろしいですね 」とか言うのである。
時には現地ガイドに先んじてサクサクと道案内などもし、複雑な街路をものともせずに一行をエスコートした。
面妖である。いまだに銀座の地理すらわからぬ人間が、なにゆえパリで迷わぬのであろう。なぜだと訊けば、「オーホッホ、わたくし前世はマリー・アントワネットでしたのよ」などとうそぶく。
種明かしは簡単であった。つまり女史は常に観光ガイドブックを所持していたのである。正確な地図があれば勘を働かせる必要がない。ましてや聡明な女史のことであるから、教科書を学習する要領でまことテキパキと見知らぬ町を歩き回ることができるのである。
さて──この事実はしばし私を考えこませた。
私の長年にわたる人物観察によると、女性は総じて方向オンチである。その点男性は多かれ少なかれ体内磁石を持っている。
ためしにこんな実験をしてみるとよい。地下の酒場などで、「北はどっちだ」と訊ねると、男性は概(おおむ)ね本能的に北を指さすことができる。しかし女性はほとんどこれができない。
このふしぎな現象にあえて理由をつけるとするなら、こういうことになろう。つまり、男性はもともと巣を離れて猟に出、獲物を捕えてまた巣に戻る。したがって頭のどこかに方向や座標を感知する機能を持っているのである。
一方の女性は日がな巣にこもって子供を産み育てるのが役割なので、その機能を必要としない。種の保存のために男性は生まれつきの方向感覚を有しており、女性は学習によってしかそれを身につけることができないのではなかろうか。
もし私のこの仮説が本当ならば、猟に出る女性、すなわち働く女性はそれぞれの職場でずいぶん苦労をしていることになるのだが。
地下街に下りた途端に迷子に
ここで話は秋のパリから春浅き中国東北地方へと飛ぶ。
ハルピン市は松花江のほとり、発展する中国の中にあっても今なお旧きよき満洲の面影をとどめる、美しい街である。このたびの取材旅行は、大連、瀋陽、長春とめぐり、このハルピンを北限として北京に戻るという日程であった。
中国の気候は暦に忠実で、3月下旬の旅は思いのほか暖かかったが、さすがにハルピンの風は身を切るように冷たかった。
青空に氷の屑が舞う市街を案内して下さったのは朴(パク)さんという妙齢の女性ガイドである。色白で美しく、笑うと目が榛(はしばみ)の実の形に細まってとても愛くるしかった。
もちろん中国人の日本語ガイドという職業はスーパー・エリートで、愛らしい表情の底には硬質の知性が輝いていた。
どのような質問にも彼女は決してとまどうことなく、正確な日本語で答えてくれた。
「キタイスカヤ、とは契丹(きったん)人の街という意味のロシア語ですね。もともとハルピンはロシア人の造った街で、革命後には国を追われた白系ロシア人が住みつきました。満洲国時代にもその数は日本人よりずっと多かったのですよ。それに、白系ロシア人は貴族や資産家が多かったから、ハルピンはこんなに優雅な街に発展したのです。現在は繊維関係とか衣料品が主な産業ですね。日本との合弁工場もたくさんあります」
とまあ、こんな調子である。朴さんは服装もおシャレで、スパッツに革の半コートを羽織り、さっそうと街なかを歩くさまなどはまさしく選良中の選良というふうであった。
市内観光を一通りおえたあと、お買物をしようということになり、朴さんと連れ立って街に出た。
「秋林百貨店(チユーリンデパート)は旧満洲時代と同じ名前で、南崗街の同じ場所にあります。建物もそのままですね。もちろん今は国営のデパートですけれど」
買物をおえて地下街におりた。ハルピンは真冬には氷点下20度にもなるので、長大な地下街が張りめぐらされている。それぞれ「香港街」「東京街」などという名称がつけられ、ぎっしりと並んだ店はほとんどが衣料品店であった。
人ごみに揉まれながら地下街を歩いているうち、朴さんが突然パックマンになっちゃったのである。
たしかハルピン生まれのハルピン育ちだと言っていた。いくら長大な地下街とはいえ、生まれ育った街なかで迷子になるはずはあるまい。しかし朴さんは複雑に入り組んだ地下道をウロウロと歩き回り、顔色も心なしか青ざめ、しまいには日本語もしゃべれなくなってしまったのである。
「我(ウオー)~~迷(ミー)~~路(ルー)~~了(ラー)~~」
「えっ、道に迷った? 落ちつけ、朴さん。よおく考えてみろ」
「~~儿是(ルシー)~~哪(ナー)~~儿(ル)? ……」
「こ、ここはどこだって、俺に聞かれても困る。ええと、北はこっちだから、ホテルはたぶんこの方角」
「是(シー)~~~~个(コー)~~方(フアン)~~向嗎(シアンマ)~~」
「こっちの方かって……うん、たぶんそうだよ」
私には自信があった。いったい中国の道というものは曲線がなく、しかもたいていは正確に東西南北を結んでいる。
「請跟我来(チンゲンウオライ)。ついてこい、朴さん」
「対不起(トエプチー)~~」
「没事儿(メイシヤール)。気にするな朴さん。これは決して君のガイドとしての資質をおびやかすものではない。きょうは土曜日で人出も多い。道に迷うのは当たり前だ」
「謝謝(シエシエ)~~你的好意(ニーダハオイ)~~」
「哪里(ナーリ)哪里(ナーリ)。どういたしまして」
他意なくつないだ朴さんの手は、少女のように柔らかく、温かかった。
歩きながらふとこんなことを考えた。雇用機会均等法の施行以来、女性は社会で大活躍をし、そのぶん男は弱くなった。はなから男女が同権である共産中国では、さらに如実であろう。
しかし、男性が女性にすべてを委ねてはならない。いかな場合においても、男性は女性を庇護(ひご)する責任を放棄してはならない。少なくとも神は、男性にのみ狩に出て獲物を捕え、それを巣に持ち帰る能力を授けたのである。
地下道を抜け出ると、ハルピンの青空には氷の屑が舞っていた。ポプラの街路樹の下で私の手をほどくと、朴さんは正確な日本語で「ありがとうございました」と言った。
懸命に働く女性の姿は頼もしく、また美しいが、おろおろととまどう女性はたまらなく可愛い。そしてその愛らしさが、決して働く女性の尊厳を傷つけることはない。
(初出/週刊現代1998年4月25日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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