森の中に去っていったチャンピオン 偶然だが、アメリカ球史にもよく似た話が残されている。1895年に創設された全米女子アマで、第2回大会から3連勝の偉業を達成した可憐なる乙女、ビアトリックス・ホイトもまた、いきなりチャンピ…
画像ギャラリー今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。もう一つ大事なのは“読むゴルフ”なのだ」という言葉を残した夏坂さん。その彼が円熟期を迎えた頃に著した珠玉のエッセイ『ナイス・ボギー』を復刻版としてお届けします。
夏坂健の読むゴルフ その22 美人ゴルファーの決断
全英4連覇の偉業直前に出場辞退
1893年から始まった全英女子ゴルフ選手権に、前触れもなく1羽の白鳥が舞い降りた。
当時の雑誌「ザ・フィールド」の内容は男臭いものばかり、ラグビー、サッカー、ゴルフにポロ競技。さらにはレスリングからボートまで取り上げるサービスぶりに、
「男の汗がしたたる雑誌」
と、定評があった。その筋金入り硬派編集部が、初めて女子ゴルフを取り上げただけでも衝撃的ニュースだというのに、美貌のマーガレット・スコット嬢の写真を大きく載せて、このように紹介したのだ。
「1番ティに現われた彼女は、含羞の微笑にも高貴な香りが漂い、あまりの美しさに誰もが息をのんで見蕩れた。まさしく彼女はウィンブルドンの草原に舞い降りた1羽の白鳥であり、天使と見まごう清純な煌めきは、断然他を圧倒した」
この場合、断然圧倒された「他」とは何を指すのか!? ただ正直に「ブス」と書かなかっただけのこと、いまならば抗議の電話が鳴って不思議はない表現だが、そこは名にしおう男尊女卑のお国柄、「ザ・フィールド」には1通の苦情も寄せられなかったそうだ。
いざゲームが始まってみると、ビクトリア王朝風のドレスを苦にもせず、トップではヘッドが地面に急接近するほどのオーバースウィングから、ここでも断然「他」を圧倒する豪打ぶり、グリーン近くでは柔打がことごとくピンにからむ按配、あっさり優勝して優雅に立ち去った。
エルドン伯爵の長女として生まれたマーガレットは、自宅の庭にタフな3ホールが完備された環境で育ち、5歳にしてパットの天才と騒がれた。しかし、外に出てプレーする必要がないため、一部から「幻のレディ」と呼ばれても、実際に彼女のプレーを見た者はいなかった。
それが突如として第1回大会に現われると、前代未聞の強さを発揮したばかりか、翌年、翌々年にも優勝して当時唯一のメジャーに3連勝だ。スコットランドからイングランドにかけて、まさに彼女は「時の人」だった。
そして1896年、4連勝の偉業をこの目で見たいと、前泊組も含めて約1万人のギャラリーが押し寄せた。もちろん、女子のゲームにこれだけの観衆が集まった例はない。ところが試合直前になって、いきなり彼女から出場辞退の知らせが舞い込んだから大変、会場は暴動寸前の騒ぎとなった。
「一体、何があったのか!?」
観客は詰め寄ったが、役員にもさっぱり事情がわからない。結局第4回大会は空気が抜けた状態のままに終わった。
それから半年後、のちに全英アマの覇者となった弟のマイケル・スコットが、友人にことの真相を打ち明ける。それによると、親のすすめに従った20歳の彼女は、貴族ハミルトン・ラッセル卿との結婚に同意する。ところが夫君は病弱の身、夫を置いてゴルフに出掛けるなど、当時の風潮からすると反逆罪に等しい行為だった。
「泣く泣く姉はクラブを折ったに違いない。しかし、周囲には悲しい態度の片鱗も見せず、いつも私を激励してくれた」
弟の話が活字になって広まると、なかには号泣する者もあって大反響、何も悪いことをしていないのに、ラッセル卿1人が悪者に仕立て上げられた。それにしても、愛のために果たして3連勝中の全英選手権が捨てられるものだろうか。後世、ゴルフ評論家のパット・ワード・トーマスは次のように書いたものである。
「恐らく半年後、いや1ヵ月後かな、彼女は心から悔んだに違いない。だって結婚生活よりゴルフのほうがおもしろいもの……」
森の中に去っていったチャンピオン
偶然だが、アメリカ球史にもよく似た話が残されている。1895年に創設された全米女子アマで、第2回大会から3連勝の偉業を達成した可憐なる乙女、ビアトリックス・ホイトもまた、いきなりチャンピオンの座から降りてしまった。
彼女の場合、15歳にして第1回大会に出場すると、いきなりメダリスト(予選成績第一位)に輝いて全米から脚光を浴びる。とにかく顔がかわいい上に、しなやかな体を目一杯使って男性顔負けの飛距離を披露する。シカゴGCのトップアマと勝負して遜色なかったというから、並の女性ではない。
1896年の第2回大会では、ロングホールで勝ち星を重ねる得意の試合運びで見事に優勝するが、当年とって16歳。この最年少記録は1971年にローラ・ボーが肩を並べるまで、実に75年間も不滅だった。
『アメリカのゴルフ・百年』によると、ホイトは15歳にして古参プロが辟易するほどアプローチが巧みだった。その秘密はクラブにあった。
「彼女の父親が考案したアイアンは、フェースが上を向く特殊な形態のものだった」(同書より)
思うに、いまのサンドウェッジに近いロフトのクラブでハイピッチをマスターしたのだろうが、それにしても15歳の少女だからこそ出来た大胆な技である。
さらに特筆すべきは、第1回から第5回まで、常にメダリストに輝いたことである。公式競技での記録としては空前絶後といえるだろう。
「ゲーム中、私は勝負について考えたことがない。いつも目の前のボールに集中するだけ。結果として、その集中力がいい方向に作用するのだと思う」
第5回大会のときには、彼女も19歳になっていた。そのころに受けたインタビューで、ゴルフは集中力のゲームだと語っている。また、
「ゲーム中、スウィングが変だと思っても直しては駄目。変なスウィングから打たれたボールで最後までゲームを進行させなさい。これが私から皆さんへのアドバイスよ」
このようにも言った。ゴルフ界の文豪、ハーバート・ウォーレン・ウィンドが編集した『アメリカ・ゴルフ史』によると、彼女にはあと50勝するぐらいの実力があった。ところが20歳のとき、純朴な青年と恋に落ちる。彼はカナダとの国境に近いキースの出身者、大学卒業後は長年の夢である森林警備隊に入る予定だった。
「だから、この恋はあきらめるしかないのよ」
彼女は友人に、寂しい胸の内を語っていた。ところが翌年の全米女子アマが始まる1ヵ月前になって、不意にエントリーが取り消された。この変事に気づいた「アメリカン・ニュース」の記者が、彼女の自宅をたずねたところ、折しも旅支度の最中だった。
「私は、フェアウェイからラフの奥に引っ越します」
「というと?」
「ラフの奥にあるのは森だけよ。私は森林警備隊員の奥さんになるの」
かくしてビアトリックス・ホイト選手もまた、一切の競技生活から足を洗って人妻となった。
「チャンピオンの座よりも、結婚のほうが大事なのか?」
その記者はこう書いたが、それは価値観の問題、周囲がとやかく言う話ではない。ただ、愛ゆえにクラブを折る所業は女性だけに見られる傾向であって、名誉欲の旺盛な男には真似が出来ない。
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1936年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。
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