零下50度の大型冷蔵庫で作業中に それは──若き日の私が信じ難い栄耀を極めたネズミ講もあわれ一炊の夢のごとくポシャり、我に返って講談社はじめ前記各社に持ち込んだ原稿もことごとくボツとなり、失意の日々を送っていた23、4歳…
画像ギャラリーバブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第76回は、「密室について」。
極度の閉所恐怖症を患う女性編集者
丸2年がかりで執筆中の長編小説を、ここいらで一気に脱稿するべいと心に決め、ホテルにこもった。
1800枚にのぼる小説のラスト100枚となると、執筆場所を移動すること自体なまなかではない。ほとんど1行ごとに長い物語の整合性を気にしなければならず、ためにそれまでの全原稿と主だった資料、辞書、創作ノートの類いをすべて持ち運ばねばならないのである。早い話が、書斎の引越だ。
作家っていい商売ですね、ペンと紙だけありゃいいんだから、などと言うのは勝手だが、現実はこういうものなのである。こたびのホテル行に際して私の携行した「紙」は、大型サムソナイト3個分に及んだ。
さて、これらを持ち込んだホテルの密室となると、ほとんど床さえ見えぬ坂口安吾状態になるかと思いきや、私の場合とても几帳面な性格なので、実は「完全な書斎」となる。
いつもの段取りでツインルームの片方のベッドはとっぱらってもらい、かわりに座卓と座椅子を入れ、その周囲に整然と資料や原稿を積む。地図、系図、人物相関図等を壁に貼りめぐらす。ホテルの私物化である。
カーテンは閉めっぱなし、時計は見ると眠くなるので隠してしまう。食事は三食ルームサービス、もちろん新聞も読まず、テレビも見ない。こうなると数日を経ずして暦が失われ、久しぶりにカーテンを開けてみたら、とっくに梅雨は明けて真夏の太陽が浮世の路上を灼いていた。
たいした苦痛は感じない。というのも、私の場合、自衛官という実質的拘禁生活を振り出しとして、法的拘禁生活とか超法規的拉致監禁生活とか、そういういけないことを多々経験しているので、強制されていないというだけでも何だか幸福感さえ覚えてしまうのである。
ただし、他人と会話が交わせないということがちと辛い。我慢できないほどではないのだけれども、本能的にコミュニケーションを求めようとするのか、原稿に会話部分が多くなる。これはまずい。
こういうときは編集者の陣中見舞がたいへん有難い。今回もB社のベテラン編集者N氏、ホテル間近のS社武闘派C女史、新宿F社のH女史等が、まるで私の精神状態を察知したかのように訪れ、無聊を慰めて下さった。カンヅメ作家に対するマニュアルがあるのかどうかは知らんが、皆さんあまり仕事の話題には触れず、食い物の話とか病気の話とか、こちらの脳ミソをときほぐすような、下世話な会話をして下さるのがまた有難い。
ところで、ごていねいに胃薬とマッサージ器を差し入れて下さったH女史から、興味深い話を聞いた。
女史は閉所恐怖症なのだそうだ。窓とか扉とか、どこかしらが開放されていないと、たちまち頭痛と吐き気に襲われるという。車や飛行機は、もう乗ったとたんにパニックに陥るという。
えっ、そそそれじゃフロやトイレはどうするんだ! とあやうく訊こうとして言葉を吞んだ。
想像するだに気の毒である。彼女はトイレに行くたびに頭痛に襲われ、吐き気をこらえつつフロに入っているのであろうか。
さて、去年の秋から原稿を待たせ、ごく最近の修正表によれば来年の4月かそこいらに仕事をする予定のF社H女史が帰ったあと、私は再びひとり密室にこもって考えた。
閉所恐怖症どころかむしろ密室を好む私は、かつてただ一度だけ、密室に恐怖したことがあった。そのそら怖しい体験を思い出したのである。
零下50度の大型冷蔵庫で作業中に
それは──若き日の私が信じ難い栄耀を極めたネズミ講もあわれ一炊の夢のごとくポシャり、我に返って講談社はじめ前記各社に持ち込んだ原稿もことごとくボツとなり、失意の日々を送っていた23、4歳のころのことであった。
ネズミ講の残党どもとともに新規事業の開拓をめざし、というとすごくまともに聞こえるが、テキヤ出身の相棒のアイデアで、某スーパーマーケットの店頭で、酒のツマミとか塩干物を売って、口を糊(のり)していた。
もとよりノウハウはない。節操はもっとないので、横浜の市場とかそこいらの漬物工場からてめえの食いたいものを手当たり次第に買ってきては、「産地直送・九十九里の大鰯」とか「済州島直行便・黄金のキムチ」とか「浄土ケ浜の荒汐わかめ」「オホーツクのチャンチキほっけ」「嫁ごろしの津軽八年味噌」「きんばあちゃんの蔵出し古漬け」等々、適当なキャッチ・コピーを付けて売っていた。
私は当時から口八丁であり、営業センスもよろしかったので、けっこう儲かった。とりわけ儲かったのは、言わずもがな土用のウナギである。なにせ「九十九里の大鰯」や「オホーツクのチャンチキほっけ」とちがい、「本場浜松・遠州天下うなぎ」は単価が張る。しかも正体は台湾産の冷凍物であるから、土用の前後1週間、声を嗄からして売りまくれば、その後しばらく腰すえて小説が書けるぐらい儲かった。
相棒がコンロで焼き、私は唯一の「浜松うなぎ」の段ボールを持って、冷凍庫と店頭とを往復する。私も相棒も団地の奥様方には極めてウケが良く、定番のヒット商品「嫁ごろしの津軽八年味噌」の販売実績も相あい俟まって、土用当日は長蛇の列となった。
その店には零下50度の大型冷凍庫があった。冷凍食品がたくさん出回り始めたころのことで、たぶん先進の設備だったのだろうと思う。店頭からぐるっと建物をめぐって、昼間はあまり人の出入りがない搬入口の片隅に、厚さ20センチぐらいの扉があり、うんこらせと開ければ、中は零下50度の密室である。
扉には「開放厳禁・閉め忘れに注意」なんて、注意書きが貼ってあった。台湾ウナギは冷凍庫の奥に山積してある。それを「浜松うなぎ」の唯一ボロボロの段ボールに移しかえて店頭に運び、ワゴンの下でひそかに自然解凍すると、炎天下15分ばかりで「本場浜松・遠州天下うなぎ」と相成り、さも今しがた奥の調理場でさばいてきたかのように、相棒が焼くのであった。
解凍できぬままコンロに乗せたらたちまちバレるので、運搬のころあいはけっこう難しい。
夕方のラッシュ・アワーが近付き、よしそろそろ1箱出してくるべいと、私は冷凍庫に走った。「開放厳禁」の扉を開けると、どこぞマナーの悪い営業が放りこんで行ったものか、アイスクリームのケースが溢れんばかりに積み上がっている。畳敷にして3畳ほどの冷凍庫の中で、几帳面な私はブウブウ愚痴を言いながら、アイスクリームを壁ぞいの棚に積みかえた。
と、そのとき背後で、「だあれェ! また開けっ放しにしてえ!」という、パートのババアの声がした。アイスクリームと格闘しながら、ヤバイ、と思ったときは遅かった。ブキミな軋(きし)みを残して厚い冷凍庫の扉はとざされ、同時に電灯が消えた。頭上のモーターが唸り始め、粉雪とともに気温がググッと下がった。
完全な闇である。しかも店頭でウナギ売りをしている私は当然のことながら、Tシャツに半袖の白衣という姿であった。
零下50度というのはつまり、シベリアの森の中とか、南極とか、ヒマラヤのてっぺんとか、そういう場所のことであって、私はあろうことかマナーの悪いアイスクリーム屋とそそっかしいパートのババアのせいで、炎天下の日本から極地へと瞬間移動させられちまったのである。
呼べど叫べど救助隊はこない。そのうえ掌や剝き出しの二の腕はほんのちょっとでも何かに触れようものなら、たちまち貼り付いて離れなくなる。
10分か15分、そうしていたと思う。実演販売のギョーザ売りの到着があと5分遅れていたなら、私は確実に凍死していたであろう。髪も眉毛も真白に凍りつかせてうずくまるウナギ売りを発見したときの女の悲鳴は、今も耳に残る。
それにしても、もしあの恐怖をトイレでもフロでも毎度味わっているとしたなら、H女史は世界一気の毒な人間ではあるまいか。
私にしてあげられることは何もないので、せめていい小説を書いてやろう、と思った。
(初出/週刊現代1995年8月28日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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