場末の商店街の帽子店にそれはあった 帰京した私は家族にも編集者にも内緒で、懸命に帽子を探し始めた。 以前にも書いたが、62センチの帽子は存在しない。ために私はかつて、学生帽も軍帽も、鉄カブトの中帽のしかけさえも、こっそり…
画像ギャラリーバブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第99回は、「ふたたび巨頭について」。
真夏の炎天下、無帽での取材行の末に
私の頭が常軌を逸したサイズであるということは以前にも書いた。
書いた記憶はあるのだが、何でもかんでもモノにしたとたんに忘却してしまうという悪いクセがあるので、いったいどんなことを書いておったのであろうと、現在絶好調乱売中の『勇気凜凜ルリの色・第1巻』を繙(ひもと)いた。
P224「巨頭について」。
くだらん。実にくだらん。くだらんが面白い。思わずハッハッと声を立てて笑ったあと、俺はやはりこの路線で行くべきだなどと考え、暗い気持ちになった。
で、不本意ながら「ふたたび巨頭について」を書く。
この夏、どうしても帽子が必要になった。某月刊誌上に京都を舞台にした小説を連載しており、ために毎月取材にでかける。私はしごくリアルな半生を送ってきたせいで想像力というものに乏しく、現場取材をしなければ風物がうまく描けないのである。そこで毎月京都に出張し、3、4日かけて市中をレンタル自転車で走り回るハメになった。
作家自身の名誉のために言っておくが、レンタ・サイクルという発想は決して経費節減のためではなく、いわんや自衛隊出身のマッチョな趣味に起因するものでもない。自転車の機能と速度は、極めて風物の取材に適しているからである。
在隊時は1500メートル持久走を4分30秒台で走破し、以後この豪脚によっていくたびか生死に拘(かかわ)る窮地を脱した。したがって自転車取材とはいってもなまなかのものではない。
たとえば某日の行程を思い返せば、京阪三条を起点として、南禅寺、鹿ヶ谷、法然院で谷崎潤一郎の墓に詣でたあと一気に銀閣寺道から京都大学。構内に乱入して学生たちからカツアゲ同然のインタビューを取り、今出川通を一路西へ。
西陣、等持院から太秦(うずまさ)、映画村を見学して嵐山、国道162号をとって返して桂川畔に至り、そこから90度の反転をして九条通をつっ切り再び東山。
東福寺から泉涌寺(せんにゅうじ)、さらに智積院(ちしゃくいん)とめぐり、いっそ清水寺までと思ったが坂道があんまり辛そうなのであきらめ、石段下を通って青蓮院の縁側で昼寝ののち、夕刻に起点の自転車屋へと戻った。
要するに京都市内一周のサイクリングである。毎度この調子で走ることも、春から初夏までは爽快であった。しかしやがて、泣く子もウナる京都の夏がやってきた。
仕事なのだから熱い寒いは辛抱する。ところがある日、ホテルに戻ったとたん強烈な頭痛に襲われた。炎天下を無帽で走った結果、熱射病に罹ったのであった。
今さらいうのも何だが、私はハゲである。ハゲ頭の直射日光に晒(さら)される苦痛は、ハゲでなければ決してわからない。ものすごく暑いのである。いや、熱いのである。しかも日灼けによって赤く腫れ上がったのち、たまらなく痒(かゆ)くなり、数日後、あろうことか皮がムケた。
それは7月初旬のことであった。ならばさらに日射しの強まる8月にはとうてい耐えきれまいと思い、どうあっても帽子を買わねばならぬと決心したのであった。
まさか「ハゲのために休載」とは言えぬ。
こうなると62センチという巨頭は、作家生命に拘る問題なのである。
場末の商店街の帽子店にそれはあった
帰京した私は家族にも編集者にも内緒で、懸命に帽子を探し始めた。
以前にも書いたが、62センチの帽子は存在しない。ために私はかつて、学生帽も軍帽も、鉄カブトの中帽のしかけさえも、こっそりと改造して冠っていたのである。若い自分にはそうした手間も惜しまず、また多少の出来ばえの悪さも苦にならなかったのであるが、40も半ばになってはそれもうまくない。
第一、「浅田次郎はゴム入りの改造帽を冠っている」などという噂がとべば、私は今後お笑いエッセイのほかに生きる道がなくなる。それもまあ悪くないと思うけど、やっぱりいやだ。
そうこうするうちに8月の取材日程が迫ってきた。62センチの帽子をあちこちと探しあぐねながら、私は短絡的な強迫観念に捉われだした。つまり、「帽子がなければ小説が書けない」というプレッシャーに襲われたのである。決してそんなはずはないのだが、病的なまでにそう思いこんでしまった。
さて―—ここに1個の帽子がある。
たいそう派手な、ツバの広いパナマ帽である。大枚1万5千円もしたが、たとえ15万円でも私は迷わず買ったであろう。
とうとうめぐり遭ったのは、帽子探しに倦(う)んじ果てた場末の商店街であった。それはくすんだショーウインドの中で、おのれの並外れたサイズの為に長らく購(あがな)われることもなく、静かに巨頭を待っていた。
その日、私は知人からの非情なファックスを受け取り、失意のどん底にあった。
「あちこち探しましたが、パリにはありません。イタリアにはあるかもしれないと帽子屋さんが言っていましたので、そちらに聞いたらいかがでしょうか」
イタリアか……と呟きながら、私はワラにもすがる思いで、電話帳で調べた数少ない「帽子専門店」を訪ねたのであった。
たそがれのショーウインドの片隅にその帽子を発見したとき、(これはデカい)、と思った。見た目にははっきりとそうとわかるほどデカかったのである。
きょうびまったくはやらぬ帽子専門店に入り、おそるおそる訊ねた。
「あの……それを見せて下さい」
店主は私の頭をチラと見て答えた。
「サイズが大きいですよ」
私の頭は後頭部が突出した形なので、一見してそう大きくは見えないのである。
「いえ……けっこう大きいんです。見せて下さい」
「そうですかあ? ま、モノはためしということもあるけど、これは大きすぎてなかなか売れないんですよ。もしサイズが合えばお勉強しときます」
通常、モノはためしと冠ったとたん、帽子は正月のおそなえ餅のようになる。冠るのではなく、乗っかるだけなのである。店員はたいてい爆笑し、私も笑ってごまかす。ただしそのときの屈辱感といったらただものではない。
冠る前に、まず内側を点検した。カナダ製のステットソン。一流メーカーである。しかしサイズ表示には(60/7 1/2)とあった。60はセンチ、7 1/2は号数かなにかであろう。
私は溜息をついた。
「あの、60センチじゃダメなんです」
「いえいえ、表示にはそうありますけど、どういうわけか大きいんですよ」
ふと、カナダの雄大な自然が私の脳裏をかすめた。その国に行ったことはない。だが聞くところによれば、そこは森と湖に恵まれた豊穣な大地で、ヤマにはヒグマがおり、川にはシャケが群れをなし、あの巨泉さんだって住んでいるという。
そういうすばらしい国なのだから、もしかしたら日本でいう62センチはカナダでは60センチなのかもしれないと私は思った。
ステットソンのパナマは、私の居だな頭をすっぽりとおさめた。一瞬、えも言われぬ感動とともに、44年の労苦が甦った。
子供のころから頭でっかちといじめられた。学制帽の後頭部を切り裂いてゴムを縫いつけた。自衛隊では補給陸曹と営内班長が、夜をつめて細工をしてくれた。
「……ぴったりです。これ、下さい」
「本当ですか? ……ムリしてないですか」
いかにも信じ難いというふうにかぶりぐあいを調べて、店主は快哉の笑みをうかべた。よほど売れずに置いてあったのだろう。あたりまえだけど。
「1万5千円ですけど、1万円でけっこうです」
店主はそう言ったが、私は1万5千円を支払った。どう考えてもイタリアに行くよりは安い。かくてステットソンのパナマ帽は、私のトレードマークになった。ちょっとキザだけれど、とうとうめぐり遭った恋人とはかたときも離れたくはない。
頭でっかちの私をやさしく包込んでくれる帽子に口づけをして―—おやすみなさい。
(初出/週刊現代1996年7月20日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。