松平定知の「一城一話55の物語」

「あれは人間と申すものではない」と言わしめた“知恵伊豆”こと天才・松平信綱 居城は江戸防衛の要「川越城」

川越城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

酒井忠勝「信綱と決して知恵比べをしてはならない」 信綱は、島原の乱を平定した功により、忍(おし)藩3万石から川越藩6万石に封じられました。彼は3代将軍・家光、4代将軍・家綱と、計59年間も将軍に仕え、老中のまま亡くなって…

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。2012年8月からは車雑誌「ベストカー」に月1回、全国各地の55のお城を紹介する記事を連載。20年には『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)として出版されました。「47都道府県の名城にまつわる泣ける話、ためになる話、怖い話」が詰まった充実の一冊です。「おとなの週末Web」では、この連載を特別に公開します。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

太田道真、道灌父子が築城

川越城は江戸防衛の要とされ、「江戸の大手は小田原城、搦め手(からめて)は川越城」といわれました。もとは太田道真、道灌父子が築城し、戦国時代は北条氏が武蔵国支配の拠点としていた城です。

しかし、天正18(1590)年の小田原征伐の際、前田利家に攻められて開城。徳川家康が関東に移った際には、譜代の酒井重忠が1万石で川越藩を開きます。その後も川越城は、武蔵国の中央に位置する重要拠点であったため、譜代大名で老中を務める人物が歴代城主になりました。

「小江戸」と呼ばれる川越の街並み show-m@Adobe Stock

江戸初期の幕政を支えた名老中

松平信綱は、初期の江戸幕政を支えた名老中です。伊豆守だった彼は幼少から利発で、「知恵伊豆(知恵出づ)」と呼ばれ、老中になってからもいくつもの難題を解決しています。
 初期の江戸幕府を揺るがす大事件としては、島原の乱(1637~1638年)や慶安事件(由井正雪の乱 1651年)、明暦の大火(1657年)の3つが挙げられますが、そのいずれも彼が冷静に対処して、幕府の権威を高めていきます。

皆さんご存じのように、島原の乱は領主・松倉勝家の苛政に対して、天草四郎を総大将に原城にたてこもったキリシタンを中心とする一揆です。当初、幕府は板倉重昌を鎮圧の大将として差し向けます。しかし、重昌は譜代とはいえ、わずか1万5000石の三河深溝(ふこうず)藩の藩主であり、動員された西国の諸将をうまく指揮できませんでした。

このままでは海外勢力の介入もあると危惧した幕府は、老中だった松平信綱を総大将として派遣します。功を奪われると焦った板倉重昌は総攻撃をかけますが、逆に4000人といわれる死者を出し、自らも戦死してしまいます。

川越城本丸御殿の廊下  shonen@Adobe Stock

砲撃で一揆軍の希望を打ち砕く

信綱が着任した際は、鎮圧軍は12万人にまで膨れ上がっていました。彼はおびただしい数の櫓を建て、原城を兵糧攻めにします。さらに矢文を打ち込んで内応を促すなど、徹底した心理戦に出ます。

さらに、平戸のオランダ商館長だったクーケバッケルに、原城に向けて艦砲射撃を依頼しています。攻撃自体にはさしたる効果がなく、外国勢に手を借りるとは何事かという意見もあって中止されますが、信綱には違う狙いがありました。

彼は、キリシタンである一揆軍はイエズス会を頼りとしており、南蛮から援軍が来てくれると信じていることを知っていたのです。砲撃により希望を打ち砕かれた一揆軍の精神的なダメージは、かなりのものでした。そして、籠城軍が餓えに苦しんでいると見るや、総攻撃に出て原城を落城させています。

川越市内の「時の鐘」   栄作 安藤@Adobe Stock

酒井忠勝「信綱と決して知恵比べをしてはならない」

信綱は、島原の乱を平定した功により、忍(おし)藩3万石から川越藩6万石に封じられました。彼は3代将軍・家光、4代将軍・家綱と、計59年間も将軍に仕え、老中のまま亡くなっています。

同時代に老中・大老を務めた酒井忠勝は、信綱を評して「信綱と決して知恵比べをしてはならない。あれは人間と申すものではない」と語っており、天才的な政治家だったことがわかります。

川越城本丸御殿の和室    Mono Moon Records@Adobe Stock

【川越城】(別名・初雁城)
室町時代後期武蔵国は扇谷(おおぎがやつ)上杉氏と古河公方(足利氏)が争い、足利氏に対抗するため扇谷上杉氏の家臣だった太田道真、道灌父子が長禄元(1457)年に築城したことが始まり。天文15(1546)年日本三大夜戦に数えられる河越夜戦の舞台としても有名。これはわずか3000の兵で河越城(江戸時代以前は河越城と呼ばれた)に籠城していた福島綱成が、援軍に駆けつけた北条氏康とともに、夜陰に乗じて包囲した上杉軍8万騎余を破った戦いだった。川越城は江戸時代には譜代大名が代々城主を務めた。大唐破風の屋根を持つ本丸御殿は日本でも数少ない御殿の遺構となっている。
■川越城本丸御殿
本丸御殿入館料:一般100円、高校生・大学生50円、中学生以下は無料
開館時間:9~17時
休館日:月曜日(休日の場合は翌日)、第4金曜日(休日は除く)、年末年始(12月29日から1月3日)
住所:埼玉県川越市郭町2-13-1
電話:049-222-5399(川越市立博物館)

川越城本丸御殿  shonen@Adobe Stock

【喜多院(きたいん)】
川越大師の名で知られる天台宗の寺院。家康の側近だった天海僧正が住職を務めたこともあって徳川家ゆかりの文化財が数多く残る。徳川家光誕生の間がある客殿や春日局化粧の間がある書院などが重要文化財に指定される。また五百羅漢も有名。
住所:埼玉県川越市小仙波町1-20-1
電話:049-222-0859

【松平信綱】
まつだいら・のぶつな。1596~1662年。大河内久綱の嫡子として生まれ、8歳で叔父である松平正綱の養子となる。家光に小姓として仕え、家光と家綱の2代にわたっての老中。島原の乱を鎮定、由井正雪謀叛(慶安事件)を未然に防ぎ、明暦の大火を処理するなど初期の幕政を支え、「知恵伊豆」と呼ばれた。川越藩主として野火止用水を完成させるなど民政にも力を注いだ。松平信綱の菩提寺は平林寺。平林寺は増田長盛の墓や島原の乱の供養塔もある臨済宗の寺院。秋の紅葉は見事。境内林が国の天然記念物となっている。
■平林寺
住所:埼玉県新座市野火止3-1-1

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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