浅田次郎の名エッセイ

京都で取材旅行中の浅田次郎に襲い来る便意!しばらくの間それと戦い続けることになった、京都ならではの理由とは?

もらすよりタタリがこわかった 話が久方ぶりに尾籠(びろう)となるがお許し願いたい。実のところ便意は、新幹線の中から感じていたのである。しかし切羽つまるというほどではなく、ホテルに入ってからゆっくりと、という程度であった。…

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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第109回は、「京都について」。

京都は「人を和ませる」と感じる特殊な事情

仕事が一段落し、体調も旧に復したので取材の旅に出た。京都蹴上(けあげ)にあるホテルの一室で、雪を頂いた比叡山を眺めながらこの原稿を書いている。

それにしても、京都という町はどうしてこれほどまで人の心を和ませるのであろうか。遥かなる時空の掌(てのひら)の上に、ぼんやりと座っている自分を感ずる。この町に住みついたなら、きっといい小説が書けるだろうと思う。

F社の月刊誌にようやく連載開始のはこびとなった長編小説の取材である。注文を受けたのはたしか3年ぐらい前のことであるから、考えてみれば私の口から「ようやく」などと言うのは、ずいぶん勝手な話ではある。

どんな商売だって、発注後3年も音沙汰なければケンカになるであろう。少くとも3年たってから、「ようやく始めます」「ではよろしく」、などという悠長な仕事があるはずはないと思う。だが、私たちの業界に限っては、べつだん珍しい話ではない。

もっとも、そうしたさなかにも出版社は連日のように誰かしらの小説を刊行し続け、短篇や連載のぎっしり詰まった小説誌を発行し続けているのだから、いったいどういう段取りになっているのか、編集者の手帳の中味をいっぺん覗いてみたい気がする。

まことに勝手ではあるが、「ようやく始めます」「ではよろしく」ということに相成った。つらつら思うに、3年も平気で待たせ、また3年も待ったという仕事はおそろしい。にも拘らず、気付いてみれば締切まであと1週間という事実はもっとおそろしい。

さて、小説の舞台となる京都は、私にとって思い出深い町である。去ること十数年前、決して作家ではなく度胸千両の身の上であった私は、ひょんなことから江戸を売って京都市内に潜伏していたのであった。そう思えば、もしかしたら私がこの町に感ずる、「遥かなる時空の掌の上に、ぼんやりと座っている」ような安息感は、そうした往時の記憶によるものかもしれない。

まあ詳しい話は今後の人生に支障をきたすといけないのでやめておこう。

ともあれ、往年のハードボイルドなど嘘のように、すっかり柔和なおっさんに変貌した私は、「のぞみ」の速度におそれおののきながら京都の駅頭に立った。

蹴上のホテルにタクシーをとばし、ついつい昔のクセでロビーに屯(たむ)ろする人々の顔にキョロキョロと気を配りながらのチェック・イン。伝統と格式を誇るホテルは、目を疑うほどの近代的な内装に生まれ変わっていた。東山のふところに抱かれたたたずまいはまったく昔のままであったので、内部のリニューアルがちと悲しい。

取材に許された時間は2日間である。なにしろ3年待たせた上で、締切まで1週間なのだからノンビリ一服というわけにはいかない。で、荷物だけをフロントに放り出して市中に出た。

めざすは京都大学のキャンパスである。業界では「極道作家」と目され、エッセイのタイトルにも「ピカレスク・ノベルの新鋭」なんぞと書かれる私が、ナゼ京都大学に取材に行くのだと怪しむ向きもおられようが、そんなことは大きなお世話である。

ただしこれだけは言っておく。京都大学出身の経済ヤクザを書こうなんて、安易な発想はない。

当然のことながら京都大学に知り合いはいない。取材といっても偉い先生にアカデミックなお話を伺うなどということであろうはずはなく、要するに校舎の配置とか樹木の種類とか、学食のメニューとか学生の顔つきなんかを観察したいのである。

「ごくろうさま」とか言って正門から入ると、守衛さんはべつに咎(とが)めだてするというふうもなく会釈を返してくれた。私は生まれつき億面というものを知らない。「ごくろうさま」の一言と満面の笑顔であらゆるチェック・ポイントを通過するのは私の特技である。ここだけの話だが、投宿中のホテルのパーティー会場などではしばしばこれをやり、難なくタダメシを食うこともある。

1時間ほどキャンパスをうろついた。大学教授には見えないにしろ、出入の業者かドロップ・アウトしたOBぐらいには見えるらしく、べつだん怪しまれることはなかった。

地下の学食でメシを食っていたら、突然便意を催し、あわてて構内から出た。ナゼあわてたかというと、メシを食ったうえにクソまでしたのでは申しわけないと、変なところが律義者の私はとっさに考えたのである。

もらすよりタタリがこわかった

話が久方ぶりに尾籠(びろう)となるがお許し願いたい。実のところ便意は、新幹線の中から感じていたのである。しかし切羽つまるというほどではなく、ホテルに入ってからゆっくりと、という程度であった。それが、フロントでチェック・インしたとたん取材の予定がクソの予定に先んじてしまい、気がつけば京都大学の学食でランチを食っていたというわけである。

とりあえず正門から飛び出してみたは良いものの、右も左もわからない。まさか通りすがりの京大生にクソがしたいとは言えず、私はひたすら左方向に歩き出した。後にして思えば、右方向に歩けばすぐに東大路であるから、車を止めるなり喫茶店に入るなりできたのだが、なぜか左に向かってしまった。

本稿をたまたまお読みになっている京大生、もしくは近在の方は私の愚かしさを笑うであろう。そう、京大正門を東にたどれば道はただ、寮歌にも謳われた吉田山の山中に消える。

東京では町なかにそうした深い山があるなどとは考えられんのである。ましてや常緑の森があれば、そこには公衆トイレがあるであろうという予測をする。ところが、吉田山は本物の山であった。

しかもまずいことに吉田神社の神域である。自衛隊出身者の常として、野グソをたれることに抵抗は感じないが、妙に信心深いところがあるので神域を穢(けが)す勇気はない。せめて境内を脱出してから、と歩を早めれば、そろそろここいらでと思うそばから祠(ほこら)やお地蔵様が現れる。全山その調子なのである。数日間、京極夏彦を読み耽(ふけ)っていたのは私にとって不幸であった。もらすのはいやだが、タタリを蒙(こうむ)るのはもっといやだった。

ようやく吉田山を下りおえたと思ったら、真如堂(しんにょどう)の山に迷いこんでしまった。これもひたすらお堂と墓場である。いよいよ深みに嵌(は)まる感じで進めば、金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)の裏山に入ってしまった。

そこは黒谷(くろだに)と呼ばれる古刹(こさつ)、かつて会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職の本陣を置いた寺である。ひそかな幕末マニア、新撰組オタクである私は、襲いくる便意と感動のはざまに立ちすくんだ。

会津墓地に詣で、鳥羽伏見の戦没者墓碑の前で合掌をしながら、まことに不謹慎ではあるが秘術「木挽」を試みた。以前に本稿でも紹介したことがある便意封じの秘法である。

背筋をピンと伸ばして蹲踞(そんきょ)し、片方の踵で肛門を強く圧迫しつつ体をあたかも木挽のように前後に揺する。するとあらふしぎ、秘術の効果か神仏の霊験か知らぬが、便意は夢のごとくに去った。

しかし長い経験上、この効用がつかのまであることを私は知っている。たちまち身を翻して石段を駆け下り、丸太町通に至ってタクシーを止めた。案の定、再び便意は募ってきたが、蹴上は目と鼻の先である。ホッと胸を撫でおろす間もなく、私をシーズン・オフの観光客と睨んだドライバーは、黄信号でいちいち止まりながら商魂をあらわにする。

「お寺まいりどしたらお客さん、貸し切りがよろしおすえ。明日はどこどこお回りにならはりますのんか」

それどころではないのである。

「わかった、わかったから急いでくれ」
「おおきに。ほな、明日は何時にお迎えに上りましたらよろしおすやろか」
「そんなことどうでもいいっ!」

と―-まあこういう次第で、私はいまトイレから出て、雪を頂いた比叡山を眺めながらこの原稿を書いている。

京都という町はどうしてこれほどまで人の心を和ませるのであろうか。遥かなる時空の掌の上に、ぼんやりと座っている自分を感ずる。

(初出/週刊現代1996年3月9日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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