松平定知の「一城一話55の物語」

佐倉城で改革を進めた堀田正睦 「開国」に導いたのはいったい誰だったのか

佐倉城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

老中首座を譲った阿部正弘は39歳の若さで亡くなった

ご自分のことを歴史探偵と名乗る作家の半藤一利氏は「幕末はペリーから始まった」と言います。嘉永6(1853)年6月3日、マシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が浦賀沖やってきます。この、いわゆる黒船一行が日本人に与えた脅威は計り知れず、翌年日米和親条約が締結され、開国へと向かい、幕府の衰退が一気に加速します。

当時の老中首座は阿部正弘。彼は朝廷や外様大名から意見を求めるいっぽう、勝海舟や大久保一翁、高島秋帆らを登用して、海防にあたらせています。

しかし、開国をめぐって攘夷派、開国派が激しくやり合うなかで、阿部は老中首座の座を堀田正睦(ほったまさよし)に譲ります。おそらく相当なストレスだったのでしょう、阿部はその2年後、39歳の若さで亡くなっています。

佐倉城址公園の堀田正睦公像 Photo by Adobe Stock

順天堂大学のルーツ

堀田正睦は老中首座になる前、佐倉藩で改革を進めていました。その最たるものは、蘭医・佐藤泰然を招いて診療所とした佐倉順天堂の開設でした。現在の順天堂大学はここから興っています。堀田は開国論者でした。書物を読み、アヘン戦争によって欧米列強から食い物にされるようになった清国のようにならないためには、開国しながら国防を重視しなければならないという考え方を持っていたのです。

ですから、老中首座が堀田になると、できるなら諸外国との通商はしたくないという阿部の時とは政策が変わります。日米和親条約を結んだアメリカは、イギリスやフランスに先駆けて貿易の拡大を目論み、通商条約締結を目ざしてタウンゼント・ハリスを派遣します。

佐倉城址公園のタウンゼント・ハリス像 Photo by Adobe Stock

「堀田は腹を切れ!」

堀田にとっては、アメリカとの通商条約提携は望むところでしたが、ハリスはあくまでもアメリカの利益を考えるアメリカ第一主義。日本国内も一枚岩ではなく、思うように交渉が進みません。

なかでも御三家・水戸の徳川斉昭が筋金入りの攘夷論者で、「堀田は腹を切れ!」と大反対する始末です。後の混乱を避けるためには、通商条約締結には御三家と相談し、異論がないかたちをとらなければと堀田は考えていました。

佐倉城址公園 Photo by Adobe Stock

孝明天皇の勅許を得ようと、京都へ

進退窮まった堀田は、孝明天皇の勅許を得ようと、京都の朝廷に出向きますが、孝明天皇をはじめ攘夷派公家の反対にあい、堀田は手ぶらで江戸に戻らざるをえませんでした。

そこで堀田は次の手を考えます。それは将軍後継問題です。彼は元来、紀州藩主徳川慶福派だったにもかかわらず、対立する徳川斉昭の息子・一橋慶喜を推すことにしたのです。堀田は斉昭に貸しを作る計画でした。しかしこれもうまくいかず、結局慶福が後継将軍となり、その慶福を推した井伊直弼が大老に就任します。

佐倉城址公園の佐倉城天守跡 Photo by Adobe Stock

日米修好通商条約に調印、堀田は罷免

条約調印に向け、ハリスの突き上げが厳しくなるなか、井伊は勅許を得ずに日米修好通商条約に調印してしまいました。はからずも堀田の開国論が受け入れられることになったのです。しかしその翌日、堀田は罷免されてしまいます。無勅許で調印をした責任を取らされたかたちでした。

その後、井伊大老を中心とした南紀派の一橋派への排斥は続き、安政の大獄につながっていきます。

現在、日本を開国に導いたのは井伊直弼と思われていますが、堀田正睦にも開国には思いがあったのでした。グローバルという言葉がすっかり定着しましたが、約150年前の日本に、自分の頭で世界と日本を考えることができた宰相がいたことを、みなさんには知っていてほしいと思います。それは、現在の千葉県佐倉市の殿様であったことも。

鹿島川と印旛沼(千葉県佐倉市) Photo by Adobe Stock

【佐倉城】(別名・鹿島城)
戦国時代中期と地元の豪族千葉氏の一族、鹿島幹胤(かしまもとたね)が築いた城郭を基礎とし、慶長15(1610)年、佐倉に封じられた土井利勝が5年の歳月をかけて整備、完成させた。石垣を一切用いず、干拓前の印旛沼を外堀としたのが特徴。三重櫓を天守の代用としたが、火災で焼失。明治の廃城令でほとんどが破却された。現在は佐倉城址公園として整備され、日本百名城に指定されている。佐倉城址公園管理センターに往事を偲ばせる模型がある。
住所:千葉県佐倉市城内町
電話:043-484-0679(佐倉城址公園管理センター)

佐倉城址公園の本丸跡・天守閣跡(天守跡) Photo by Adobe Stock

【堀田正睦】
ほった・まさよし。1810~1864年。佐倉藩11万石の第5代藩主。阿部正弘の後を継いで、老中首座となり、「黒船」以来弱体化する幕府の舵を取った。安政5(1858)年タウンゼント・ハリスとの間に日米修好通商条約を交渉し、開国を加速させるも、攘夷派の孝明天皇や公家たちの反対で勅許(ちょっきょ=天皇の許し)が得られず、大老となった井伊直弼が勅許のないまま調印。正睦は無勅許の責任を問われ罷免された。藩主としては蘭学を奨励するなど開明的な改革を行っている。

千葉県佐倉市の武家屋敷通り沿いの「侍の杜」 Photo by Adobe Stock

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

松平定知さん

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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