浅田次郎の名エッセイ

ふと「魔がさした」浅田次郎 一瞬で大枚342万円をドブに捨ててしまった理由

バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第111回は、「魔について」。

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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第111回は、「魔について」。

「魔」とは仏教的な「煩悩」に近いもの

「魔がさす」という言葉がある。

フト邪念が起こって、理性的な思想と行動を一瞬にしてくつがえしてしまう、というほどの意味であろう。

ということは、日ごろから感情の赴くままに生活をしているろくでなしは魔のさしようもないのであって、魔がさすのはある程度上等な人間なのである。

したがって、やや強引な論理ではあるが、私の場合しょっちゅう魔がさしている。

朝は7時に起床する。仮に徹夜仕事をして6時半に寝ても、ふしぎと7時にはいったん起き出す。愛犬パンチ号を連れて同じコースを散歩しつつ、綿密に1日の計画を立てる。

私は苦労の分だけ性格が現実的であるから、この際できそうにない計画は立てない。「なんとかできそう」もメッタには考えず、「楽にできる」という程度を、自分自身と約束する。たとえば

(1) 午前中は「勇気凜凜」の原稿を書く。
(2)昼メシはアッサリとモリソバをいただく。
(3)午後は心安らかに新聞連載小説のための資料を繙(ひもと)く。なお講談社のO氏から電話があった際には、決してイライラせずにやさしく労をねぎらう。
(4)夜はアシュケナージのショパンを聴きながら、おうすに小布施堂の落雁をひとつだけいただき、早めに寝る。

―—と、この程度のまこと「楽勝」の計画なのである。

しかし、現実にはこれがどうなるかというと、

(1)午前中は「勇気凜凜」を書こうと思ったが、フト魔がさして寝てしまう。
(2)起きたとたん思考停止のままフト魔がさして、天丼の大盛りプラスたぬきうどんを食ってしまう。
(3)午後は当然「勇気凜凜」が押しになり、イライラと机に向かっているところに講談社のO氏から電話が入り、つい魔がさして「バカヤロー」と怒鳴ってしまう。
(4)夜はアシュケナージを聴くには聴くが、途中で退屈してしまい、銭湯に行って演歌を唄う。さらに、発汗の結果飢えと乾きを覚え、ウーロン茶のボトルを片手にトップスのチョコレートケーキ1本食いをしてしまう。とたんに創作意欲が湧き、徹夜仕事に突入する。

―—と、まあだいたいこういう結果になる。

日々、悪魔との戦いである。

ところで、かように私の生活をあやうくする「魔」とは、いったい何者であろうか。
語源は梵語(ぼんご)の「mara」である。これが「魔羅」と音訳され、省略されて「魔」という概念になったと考えられる。それにしても「魔羅」という言葉の何と意味深いことであろうか。

この語源からすると、「魔がさす」の「魔」は、キリスト教でいうところの神に対する「悪魔」というより、仏教的な「煩悩」に近いものと考えてまずまちがいはなかろう。さすれば前述の私の行動も理解しやすい。いや、ほとんど説明がついてしまう。

「こういうところで運を使わない方がいいですよ」

さて、実は昨日(6月2日)のこと、私はフト魔がさして大枚342万円をドブに捨ててしまった。

いきなりこう言っても全然わからんであろうから、詳細な説明を加える。

6月2日と言えば、年に1度のダービーである。ダービーと言えば私が本誌6月8日号において予想を掲載していたことをご記憶の読者もおられるであろう。そう、私は本命をダンスインザダーク、対抗をフサイチコンコルド、単穴をメイショウジョニエと予想していたのであった。おそらく本稿の愛読者の中には私を信じて大儲けしちまった方も多々おられるであろうと思う。

正直のところ、私はこの予想に自信に近いものを持っていた。根拠を述べれば専門的になるので省略するが、3頭を選んだ簡単な理由はそれぞれ6月8日号に書いてある。

何たって年に1度のダービーである。おりしも最新刊『蒼穹の昴』が発売後1ヵ月にして4刷13万部という信じ難い売れ行きを示し、気が大きくなっていた。

そこで私は、ダンスインザダークvs.フサイチコンコルド([3]ー[13]34.2倍)の馬券に大枚10万円、ダンスインザダークvs.メイショウジョニエ([3]ー[15]55.6倍)に同じく10万円を投下した。のではなく、しようと思って府中に行った。

パドックで観察したのち、自信は確信に変わった。で、幸福はみんなで分かち合おうと思い、たまたま出会ったA紙のKとかB紙のHとか、フリーカメラマンのNとか、その他よく知らない人にまで「勝負だ勝負だ」と連絡をした。

少くともその時点までは、綿密な計画通りに、理性的に論理的に、私は342万円の配当を受け取るはずだったのである。

ところが、招待席に戻るみちみち、フト魔がさした。

フサイチコンコルドはキャリア2戦の馬である。それはまあ、海の向こうの怪物ラムタラの例もあるのだから良いとしよう。しかし、前走後熱発をしたという情報が、どうにも気にかかった。

東スタンドのゴンドラ席に昇り、投票所の前まで来て、さらに魔がさした。

フサイチコンコルドを消せば、馬券はダンスインザダークvs.メイショウジョニエの1点勝負となる。オッズは55.6倍を示している。予算の20万円をこれに集めれば、配当は何と1112万円になる。

魔がさしたときの心理の常として、思考がものすごく短絡的になり、つまりそれまで研究に研究を重ねたフサイチコンコルドのレース分析とか、血統的背景とか、さまざまの情報とか、そういう論理的予測はいっさいご破算になった。魔に冒された頭をめぐるものはただ、「1112万円は342万円よりもデカい」という、単純な結論のみであった。
さらにこんなことを考えた。

(来週の「勇気凜凜」のタイトルは「ふたたび快挙について」であろう)、と。

かくて私は、ダンスインザダークvs.メイショウジョニエの1点勝負馬券を買っちまったのであった。

ゴンドラ席のベランダにたった私は、栄光の風に酔いしれていた。ほとんどてめえが表彰台に登った気分であった。
第63回日本ダービーのスタートが切られた。展開はまったく私のシミュレーション通りに進んだ。

馬群が直線に向いた。武豊騎乗のダンスインザダークが抜け出す。バラけたインコースに名手河内のメイショウジョニエが入った。

「できたッ!」

と、私は叫んだ。前半1000メートル1分1秒4というペースを考えても、この2頭の上りの脚を差し切れる馬はいない。
しかしそのとき、疾風のごとく飛んできた1頭の馬。な、なんだ!フサイチコンコルドではないか。よし。いやよくない。

「やーめーろーッ!」

と、私は叫んだ。

ゴール前100メートルで、フサイチコンコルドはダンスインザダークを並ぶ間もなくかわした。メイショウジョニエは3着で入線した。

藤田に差された武豊のダービーは終わった。

魔に差された私のダービーもこうして終わった。

ロビーの椅子に座ってシクシク泣いていると、大勢の人が私に握手を求めてきた。要するに、私の予想を信じて大勢の人がお金持になったのであった。

悲劇を知ったS社のN氏が、何だかアメ玉をくれる感じで私を慰めてくれた。

「まあ、こういうところで運を使わない方がいいですよ」

物は言いようであるが、私は妙に納得した。

「魔」はおのれのうちなる煩悩の異名であろう。積年の努力と研鑽(けんさん)のたまものである結論を、瞬時にしてくつがえすものなどあるはずはないのだ。

ともかく、みなさまおめでとうございました。

ともかく、みなさまおめでとうございました。

(初出/週刊現代1996年7月20日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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