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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第111回は、「魔について」。

「魔」とは仏教的な「煩悩」に近いもの

「魔がさす」という言葉がある。

フト邪念が起こって、理性的な思想と行動を一瞬にしてくつがえしてしまう、というほどの意味であろう。

ということは、日ごろから感情の赴くままに生活をしているろくでなしは魔のさしようもないのであって、魔がさすのはある程度上等な人間なのである。

したがって、やや強引な論理ではあるが、私の場合しょっちゅう魔がさしている。

朝は7時に起床する。仮に徹夜仕事をして6時半に寝ても、ふしぎと7時にはいったん起き出す。愛犬パンチ号を連れて同じコースを散歩しつつ、綿密に1日の計画を立てる。

私は苦労の分だけ性格が現実的であるから、この際できそうにない計画は立てない。「なんとかできそう」もメッタには考えず、「楽にできる」という程度を、自分自身と約束する。たとえば

(1) 午前中は「勇気凜凜」の原稿を書く。
(2)昼メシはアッサリとモリソバをいただく。
(3)午後は心安らかに新聞連載小説のための資料を繙(ひもと)く。なお講談社のO氏から電話があった際には、決してイライラせずにやさしく労をねぎらう。
(4)夜はアシュケナージのショパンを聴きながら、おうすに小布施堂の落雁をひとつだけいただき、早めに寝る。

―—と、この程度のまこと「楽勝」の計画なのである。

しかし、現実にはこれがどうなるかというと、

(1)午前中は「勇気凜凜」を書こうと思ったが、フト魔がさして寝てしまう。
(2)起きたとたん思考停止のままフト魔がさして、天丼の大盛りプラスたぬきうどんを食ってしまう。
(3)午後は当然「勇気凜凜」が押しになり、イライラと机に向かっているところに講談社のO氏から電話が入り、つい魔がさして「バカヤロー」と怒鳴ってしまう。
(4)夜はアシュケナージを聴くには聴くが、途中で退屈してしまい、銭湯に行って演歌を唄う。さらに、発汗の結果飢えと乾きを覚え、ウーロン茶のボトルを片手にトップスのチョコレートケーキ1本食いをしてしまう。とたんに創作意欲が湧き、徹夜仕事に突入する。

―—と、まあだいたいこういう結果になる。

日々、悪魔との戦いである。

ところで、かように私の生活をあやうくする「魔」とは、いったい何者であろうか。
語源は梵語(ぼんご)の「mara」である。これが「魔羅」と音訳され、省略されて「魔」という概念になったと考えられる。それにしても「魔羅」という言葉の何と意味深いことであろうか。

この語源からすると、「魔がさす」の「魔」は、キリスト教でいうところの神に対する「悪魔」というより、仏教的な「煩悩」に近いものと考えてまずまちがいはなかろう。さすれば前述の私の行動も理解しやすい。いや、ほとんど説明がついてしまう。

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おとなの週末Web編集部 今井
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