松平定知の「一城一話55の物語」

「松山城」を作った武将とは誰か 加藤清正と似た境遇を歩んだ“沈勇の士”

松山城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

三河武士の生まれ

同じ加藤でも、清正は知っていても嘉明のことは知らないという人は多いのではないでしょうか。「春や昔十五万石の城下かな」と正岡子規が詠んだ伊予松山のシンボルである松山城は彼が作ったといえば、多少は親近感が湧くでしょうか。

松山城 Photo by Adobe Stock

加藤嘉明は、代々徳川家康の家臣の家柄です。つまり三河武士の生まれですが、父が一向一揆に加担して出奔し、嘉明も放浪の身となります。その後、父はどうにか羽柴秀吉(当時、長浜城主)に仕えることになり、嘉明も秀吉の世話になります。

同じく秀吉子飼いの加藤清正とは、出自こそ違いますが、二人の加藤はある時点まで、非常に似た境遇でした。二人とも賤ヶ岳で七本槍として活躍したこと、朝鮮出兵で功を挙げたこと、秀吉の死後、石田三成と敵対したこと、などです。

朝鮮出兵で大活躍、清正を救った

加藤清正に比べると、加藤嘉明は地味な印象ですが、武将としての実力は相当なもので、特に朝鮮出兵では大活躍しています。文禄の役当時、加藤嘉明は淡路の大名でしたが、志摩の九鬼義隆を大将とする水軍の副将格として戦に参加しました。朝鮮水軍は名将・李舜臣(りしゅんしん)が率いており、日本の軍船は壊滅に近い打撃を受けますが、加藤嘉明の水軍は善戦し、秀吉から感状を受けています。

続く慶長の役では、加藤清正を救います。蔚山(ウルサン)城が包囲されたとの報を受け、清正は猪突猛進して城に乗り込みましたが、補給が途絶えて孤立。そのまま籠城とあいなりました。味方はわずか500。対する明・朝鮮連合軍は、あわせて5万7000人という大軍でした。加えて飢えと寒さに襲われ、さすがの清正軍も玉砕かというところに現れたのが、蜂須賀家正や鍋島直茂の救援隊であり、加藤嘉明の軍勢であったのです。しかし、我々が「蔚山城の戦い」として知るのは加藤清正の奮戦であって、加藤嘉明の功績は忘れられています。

松山市の街並み。遠くに、松山城が見える Photo by Adobe Stock

秀吉の歯を形見にした

ひとつ年上の清正は、やることなすこと派手でした。嘉明に対して清正のほうが何かにつけて目立ったことが、この実力派武将の存在を希薄にしています。

しかし、秀吉にとっては頼りになる存在だったのでしょう。伊予20万石を与えるとともに、形見として歯をもらっています。秀吉を祀る豊国神社には、加藤嘉明に預けおくという手紙とともに、その歯が納められています。この歯を調査した結果、上あごの左側の奥歯で、歯垢で覆われていたといい、この歯以外はすでになかったのではないかと推察されました。また、この歯から、秀吉の血液型はO型ということもわかりました。歯を形見にするというのも珍しいですが、秀吉が嘉明を信頼していた証なのかもしれません。

しかし、その嘉明も、関ヶ原の戦いでは東軍につき、大坂冬の陣、夏の陣でも徳川方について、豊臣家滅亡のために働きました。加藤清正が秀頼を守るため、いざとなれば家康と差し違える覚悟だったのとは大きな違いです。加藤嘉明は「沈勇の士」といわれます。文字どおり冷戦沈着かつ勇気凛々の武将だったのです。豊臣家を見限って終始家康方についたのは、彼の冷静沈着さゆえかもしれません。

松山城 Photo by Adobe Stock

ペリーがやってきた翌年に再建

加藤嘉明が開いた松山藩ですが、その後加藤氏は加増のため会津に国替えとなり、代わって蒲生氏が治めます。しかし蒲生氏も後継ぎがなく断絶。その後寛永12(1635)年、徳川家康の異父弟・久松定勝の次男である松平定行が松山城に入り、以来明治に至るまで松平氏が藩主として治めることになりました。現在の天守は加藤嘉明が作ったものではなく、ペリーが浦賀にやってきた翌年、安政元(1854)年に再建されたものです。

松山城から見た松山市街 Photo by Adobe Stock

松山城は、江戸期に建てられた現存12天守のひとつに数えられますが、実は親藩の大名(松平氏)が作った唯一の天守なのです。そのため天守の紋章は葵の御紋となっています。
ちなみにですが、先の定勝や定行と名前が似ているのでお気づきかもしれませんが、私はこの久松松平家の傍流の末裔であります。

松山城 Photo by Adobe Stock

【松山城】(別名・金亀城、勝山城)
標高132mの勝山(かつやま)に築かれた日本一高い平山城。関ヶ原の合戦の功で伊予を与えられた加藤嘉明が慶長7(1602)年に築城開始。四半世紀にわたる時を経て寛永4(1627)年に五重の天守で完成するも、直前に嘉明は会津に転封。その後火災により天守は焼失し三重で再建なるが、それも焼失。安政元(1854)年、再建したのが現在の天守だ。江戸時代からの現存天守12城のひとつで21件もの重要文化財に指定されている。
営業時間:天守・二之丸史跡庭園9~17時(※8月:17時半まで営業、12月~1月:16時半まで営業)
定休:12月第3水曜日(大掃除)
天守観覧料:大人520円、小人(小学生)160円
ロープウェイ・リフト料金:往復券大人520円、小人260円
住所:愛媛県松山市丸之内1
電話:089ー921ー4873(松山城総合事務所)

【加藤嘉明】
かとう・よしあき(よしあきら)。1563~1631年。徳川家康の家臣だった父の長男として三河に生まれる。父が三河一向一揆で家康に背き、一家も流浪するが長浜城主だった羽柴秀吉に仕え、柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いでは、加藤清正や福島正則とともに賤ヶ岳七本槍に数えられた。秀吉が亡くなると家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍につき石田三成本隊とも戦い功を挙げ、伊予20万石を与えられる。清正や正則は秀吉の子、秀頼の行く末を案じたが、嘉明はドライであったためか、実力ほど人気がない武将だ

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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