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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

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三河武士の生まれ

同じ加藤でも、清正は知っていても嘉明のことは知らないという人は多いのではないでしょうか。「春や昔十五万石の城下かな」と正岡子規が詠んだ伊予松山のシンボルである松山城は彼が作ったといえば、多少は親近感が湧くでしょうか。

松山城 Photo by Adobe Stock

加藤嘉明は、代々徳川家康の家臣の家柄です。つまり三河武士の生まれですが、父が一向一揆に加担して出奔し、嘉明も放浪の身となります。その後、父はどうにか羽柴秀吉(当時、長浜城主)に仕えることになり、嘉明も秀吉の世話になります。

同じく秀吉子飼いの加藤清正とは、出自こそ違いますが、二人の加藤はある時点まで、非常に似た境遇でした。二人とも賤ヶ岳で七本槍として活躍したこと、朝鮮出兵で功を挙げたこと、秀吉の死後、石田三成と敵対したこと、などです。

朝鮮出兵で大活躍、清正を救った

加藤清正に比べると、加藤嘉明は地味な印象ですが、武将としての実力は相当なもので、特に朝鮮出兵では大活躍しています。文禄の役当時、加藤嘉明は淡路の大名でしたが、志摩の九鬼義隆を大将とする水軍の副将格として戦に参加しました。朝鮮水軍は名将・李舜臣(りしゅんしん)が率いており、日本の軍船は壊滅に近い打撃を受けますが、加藤嘉明の水軍は善戦し、秀吉から感状を受けています。

続く慶長の役では、加藤清正を救います。蔚山(ウルサン)城が包囲されたとの報を受け、清正は猪突猛進して城に乗り込みましたが、補給が途絶えて孤立。そのまま籠城とあいなりました。味方はわずか500。対する明・朝鮮連合軍は、あわせて5万7000人という大軍でした。加えて飢えと寒さに襲われ、さすがの清正軍も玉砕かというところに現れたのが、蜂須賀家正や鍋島直茂の救援隊であり、加藤嘉明の軍勢であったのです。しかし、我々が「蔚山城の戦い」として知るのは加藤清正の奮戦であって、加藤嘉明の功績は忘れられています。

松山市の街並み。遠くに、松山城が見える Photo by Adobe Stock

秀吉の歯を形見にした

ひとつ年上の清正は、やることなすこと派手でした。嘉明に対して清正のほうが何かにつけて目立ったことが、この実力派武将の存在を希薄にしています。

しかし、秀吉にとっては頼りになる存在だったのでしょう。伊予20万石を与えるとともに、形見として歯をもらっています。秀吉を祀る豊国神社には、加藤嘉明に預けおくという手紙とともに、その歯が納められています。この歯を調査した結果、上あごの左側の奥歯で、歯垢で覆われていたといい、この歯以外はすでになかったのではないかと推察されました。また、この歯から、秀吉の血液型はO型ということもわかりました。歯を形見にするというのも珍しいですが、秀吉が嘉明を信頼していた証なのかもしれません。

しかし、その嘉明も、関ヶ原の戦いでは東軍につき、大坂冬の陣、夏の陣でも徳川方について、豊臣家滅亡のために働きました。加藤清正が秀頼を守るため、いざとなれば家康と差し違える覚悟だったのとは大きな違いです。加藤嘉明は「沈勇の士」といわれます。文字どおり冷戦沈着かつ勇気凛々の武将だったのです。豊臣家を見限って終始家康方についたのは、彼の冷静沈着さゆえかもしれません。

松山城 Photo by Adobe Stock
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松平定知
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