『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。
伏見城や岡山城と同じ年に完成
松本城は国宝五城のひとつです。国宝はほかに姫路城、彦根城、犬山城。松江城とありますが、漆黒の五重六階の天守を持つ松本城は、たいへんに人気があります。堀から大天守の鯱までは29・4mの偉容を誇り、下見板の黒と白壁が美しく調和し、冬に訪れるとバックに雪を頂いた北アルプスが望めます。
在の松本城を築城したのは石川数正です。正確に言うと数正が建設を始め、息子の康長の時代に完成しています。天守の築城は文禄2(1593)年から文禄3(1594)年頃と考えられていますが、文禄2年といえば、まだ豊臣秀吉が存命で、吉野の花見が行われており、伏見城や岡山城が同じ年に完成しています。
松本城だけに見られる連結複合式の天守
当初完成した大天守、渡櫓、乾小天守は、戦いの多い時代だったためまとまっており、連結式天守と呼ばれます。鉄砲戦を想定し石落や狭間が多く、窓が少ないなどの特徴を持ちます。いっぽう寛永11(1634)年には辰巳附櫓、月見櫓が完成しました。こちらは大天守とあわせて複合式天守と呼ばれ、平和な時代に作られたために戦う備えはあまりありません。
松本城はこの二つの特徴をあわせ持つ、連結複合式の天守なのです。日本の城では松本城だけに見られるもので、松本城が何度見ても飽きないのはこのせいでしょう。
徳川家の“外交担当”
この松本城の築城を始めた石川数正は、もとは徳川家康の筆頭家老でありながら、豊臣秀吉のもとに出奔した人物として知られます。この出奔の原因は何か? 現在も戦国時代の謎として残っています。
石川数正は、家康が今川家に人質になっていた時代から仕え、徳川家では主に外交を担当していました。家康が三河一向一揆で苦しめられた時には、自ら一向宗から浄土宗に改宗し、家康を支えました。
また、桶狭間の戦いの後、家康は岡崎城に戻りましたが、正室(築山殿)と長男・信康は今川の領地であった駿府に残されたままでした。それを人質交換で奪還したのも、誰あろう石川数正です。ちなみに築山殿は瀬名姫と呼ばれ、母は今川義元の妹で、義元にとっては姪にあたります(母は義元の妹ではないという説もありますが)。それ故、戻っても岡崎城に入ることは許されず、城外の築山に幽閉されたことから、築山殿と呼ばれることになります。