清州同盟の成立に貢献、家康の信任が厚かった
永禄5(1562)年の徳川と織田の軍事同盟、清洲同盟に尽力したのも石川数正でした。信長の長女・徳(督)姫が、家康の長男・信康に嫁ぐことで、同盟は強固なものになりました。その後も、元亀元(1570)年の姉川の戦い、元亀3(1572)年の三方ヶ原の戦い、天正3(1575)年の長篠の戦いと、いずれも武功を挙げています。
しかし、天正7(1579)年、助け出した信康と築山殿は、徳姫からの訴えで武田方と内通したという嫌疑をかけられ、信長の命により信康は切腹、築山殿は殺されてしまいます。さぞや石川数正は無念だったでしょう。
天正10(1582)年、本能寺の変の直後に、家康が命からがら岡崎城へ帰参した際も、石川数正が随行しています。直後の秀吉が明智光秀を討った山崎の合戦の戦勝祝いに、家康から秀吉のもとに遣わされたのも石川数正でした。いかに家康の信任が厚かったかがわかります。
一族郎党100人余りを率いて、秀吉のもとへ
天正12(1584)年、秀吉と家康が直接激突した小牧・長久手の戦いが起こります。小牧では家康の完勝、長久手では秀吉がその政治力で勝利したといわれますが、徳川方の交渉役トップが石川数正でした。
この時、徳川方では小牧で勝利したこともあって、主戦論が大勢を占めていたといわれます。いっぽう石川数正は、秀吉が合戦を望まないことを知っており、和睦という道を選択します。お互いのメンツを立てて引き分けにするということです。
交渉が終わった天正13(1585)年11月13日石川数正は一族郎党百人あまりを率い、秀吉のもとへ奔ります。理由はいくつか考えられますが、講和を優先したことで、主戦論だった徳川陣営のなかでの孤立を生んだのかもしれません。
もちろん、秀吉からの熱心な誘いはあったのでしょう。さらに、先にお話ししたとおり、後見役を務めていた家康の嫡男・信康の切腹で、家康への不信感が生まれたことも一因でしょうか。すべてがない交ぜになっての結果だろうと思います。その後は秀吉に重用されて和泉10万石を与えられ、天正18(1590)年の小田原征伐後は、信州松本8万石(10万石とも)に封ぜられます。