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優秀なナンバー2

石川数正の出奔当時、家康は相当ショックだったようで、当然家臣団にも動揺が走ったはずです。家康は急きょ自国三河国の防備を固め、秀吉方に軍事機密が漏れないよう、軍制を甲州(武田)流に改革したと伝えられています。家康は数正を相当憎んだと思いますが、息子の康長が関ヶ原の戦いで東軍についたことで、所領は安堵されます。しかし康長は、慶長18(1613)年の大久保長安事件に連座して改易されています。

石川数正の生き方は、謎のままです。でも確かなことは、そのことによって。彼の評価が減殺されない、ということ。つまり石川数正は、我々が知る以上に優秀なナンバー2だったのです。

【松本城】(別名・深志城、ふかしじょう、烏城、からすじょう)
永正元(1504)年、信濃の守護だった小笠原氏一族の島立貞永(しまだち・さだなが)によって深志城が築城。一時、武田氏の侵攻を受けたが、家康の配下だった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した。豊臣秀吉の小田原征伐の後、石川数正が入城。城郭と城下町の整備を始め、息子の康長の代となる文禄2~文禄3年に完成している。明治維新後に天守が競売にかけられたが、地元の有力者によって買い戻された。天守が現存する12城のなかでは唯一の平城で、昭和11年国宝に指定。松本城が黒いのは、築城当時黒一色だった大阪城にあわせ、秀吉への忠誠を誓ったものと考えられている。
松本城天守観覧時間:8時30分~17時(※2024年のGWや夏季は8時~18時、正月三が日は10時~15時半)
観覧料:大人(高校生以上)700円、小中学生300円
開場日:年末(12月29日~31日)を除き無休
住所:長野県松本市丸の内4-1
電話:0263-32-2902

松本城 Phattana@Adobe Stock

【石川数正】
いしかわ・かずまさ。1533~1593年。三河の国に生まれる。徳川家康が今川義元の人質になっていた頃から仕え、三河一向一揆で家康が苦しめられると、浄土宗に改宗し、家康を支えた。また、織田信長と交渉を行い、清洲同盟の実現に尽力した。三方ヶ原の戦いや長篠の合戦などでも活躍し、岡崎城代も務めた。家康が秀吉と戦った小牧・長久手の戦いのあと、秀吉の元へ出奔。天正18(1590)年、北条氏が滅びると、松本8万石(10万石とも)に封じられる。松本城の築城を始めるも、完成の前に死去。享年61。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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