浅田次郎の名エッセイ

浅田次郎「勇気凛凛ルリの色」セレクト(2)阪神・淡路大震災直後に書かれた名エッセイ

1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進…

1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。

この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第2回は、自衛隊の「一兵卒」として災害派遣の経験がある浅田さんが、関西圏に未曽有の被害をもたらした阪神・淡路大震災の数週後に抱いた強烈な違和感について語った「非常について」をお送りします。

「非常について」

私が一度だけ経験した災害派遣

非常呼集のラッパが営内に鳴り響いたのは深夜であった。

「第四中隊、総員起こし。すみやかに舎前に集合。携行品は雨衣、中帽、水筒、円匙〈えんぴ〉!」

当直陸曹がインターホンでそう言い、当直士長が「非常呼集――ッ!」と叫んで走る。

ベットからはね起きて装具を身につけ、舎前に整列して点呼をおえるまでに五分とはかからなかった。

豪雨の降りしきる営庭にはすでに車両が唸りをあげており、部隊が目黒区内の浸水池に向けて出発するまで、15分とはかからなかったはずである。

現場に着いてみると愕くべきことには、私たち普通科(歩兵)連隊よりも先に、朝霞の施設(工兵)隊が到着しており、あちこちの民家の屋根にはすでにサーチライトが取り付けられて、泥にうまった被災区域を煌々〈こうこう〉と照らし出しているのだった。

マンションのベランダに施設の指揮官が仁王立ちに立って、「市ヶ谷は遅い! 支援部隊に遅れをとるとは何たることか!」と怒鳴っていた。

丘陵の斜面から鉄砲水が噴出して、わずかの間に胸までつかるほど増水していた。そこで隊員が二人一組になってお互いをロープで結び合い、一面の泥河となった周辺を足先で探りながら歩き回った。マンションの駐車場に入ったとき、マンホールに吸い込まれそうになってしこたま泥を飲んだ。

ようやく水が引き、住民全員の安全が確認されたのは夜の明けるころであった。

――これは、私が自衛官であったころに一度だけ体験した災害派遣の記憶である。

なぜ、救助部隊は遅れたのか?

さる阪神大震災に際しては、自衛隊の第一陣が神戸市内に到着したのは、災害発生から7時間後であり、本格的な部隊が投入されたのは12時間後であったという。

まさに致命的な遅れである。20数年前の豪雨の夜、マンションベランダから「市ヶ谷は遅い!」と叱咤した施設隊長の声が耳に蘇る。

災害発生の最重要事は、人命の救助である。警察にも消防にも市の職員にも、他にやらねばならぬことはたくさんあるのだから、瓦礫〈がれき〉の中から市民を救い出す純然たる救命活動は、自衛隊にしかできなかったはずなのである。にも拘〈かかわ〉らず、部隊の到着は遅れた。

このとり返しのつかぬ空白の時間は、いったいどうしたことであろうか。

以下、決して小説家としてではなく、自衛隊OBとしての勝手な憶測を許していただきたい。

第一に、自衛隊の最高指揮官たる内閣総理大臣にまつわる謎である。

「被害状況の把握に全力をあげている」むねの首相談話が発表されたのは、地震発生からほぼ3時間を経過した午前8時45分のことであるが、何はともあれ自衛隊を出動させねばならぬ「状況」であることは、テレビの画面がかなり正確に流し続けていた。

県知事からの要請を待たずに出動命令を下すことが、たとえ一種の超法規的措置であったにしろ、さほど勇気を要する決断であったとは思えない。

仮に自治体の機能がその一瞬に失われていたとしても、自衛隊や報道機関や警察や消防を通じて、おびただしい具申〈オファー〉が官邸には寄せられていたはずである。にも拘らず、政府が有効な指示を下せなかったのはなぜなのだろう。

答えは二つしかあるまい。首相およびその閣僚がひどく楽観主義者ばかりであるか、もしくは「出動命令」そのものに本能的な忌避感を持っていたかの、いずれかである。

あるいは、あまり考えたくないことだが、災害出動が空振りに終った場合の政治的責任を意識したのかもしれない。万が一そうだとすると、彼らは自らの政治生命と国民の生命を秤〈はかり〉にかけたことになり、人間的に無能だということになる。

いずれにせよ他国の大機動部隊が北海道に攻め込んできても、「状況把握に全力をあげている」ような政府ではどうしようもない。この点は全国民がこぞって弾劾すべきである。

出動命令は地震発生から4時間後

ところで、同時刻における現地の自衛隊と自治体の動きはどうだったのであろうか。

自衛隊法第八十三条によれば、災害派遣は都道府県知事などの要請に基づき、防衛庁長官が命ずる。しかし兵庫県知事が公式にこの要請をしたのは午前10時、災害発生から4時間を経過したのちであった。

謎はいよいよ深まる。彼とそのスタッフが災害時における法的メカニズムを知らなかったはずはない。しかも県庁の旧庁舎は崩壊しており、高層の新庁舎からは市内の惨状が一目瞭然であった。にも拘らず、知事は出動命令を4時間も躊躇したのである。

一方、防衛庁の記者会見発表によれば、出動に至る当日の経緯は概〈おおむ〉ね以下に要約される。

中部地方と近畿地方を管掌する中部方面隊の総監部、すなわち軍司令部は、被災地内である伊丹市に存在するのである。実働部隊である第三師団司令部も、至近距離の千僧〈せんぞ〉に置かれている。つまり総監部は麾下の各部隊に待機命令を出したうえで、幕僚を自治体に派遣し、出動要請をするよう督促した。しかしなぜか午前10時に至るまで、要請はなされなかったのである。4時間の空白の間に多くの市民の生命が失われた。

自衛隊の災害救助派遣を躊躇しなかった剛腕首相とは?

政府にまつわる謎、自治体にまつわる謎、そしてもうひとつ、自衛隊にまつわる謎が続く。

午前10時にようやく出動要請を受けた中部方面総監部は、なぜか姫路に駐屯する第三特科連隊に出動命令を下す。

特科とは砲兵である。総監部は被災地域の伊丹にあり、同じ駐屯地内には第三十六普通科連隊という1000人規模の大歩兵部隊がいるにも拘らず、まず出動したのは姫路の砲兵連隊、わずか250名であった。

途中の道路状況と被災地への距離を考えれば姫路部隊の到着が午後1時になったのは当然といえよう。こうしてさらに3時間が空費され、地震発生からつごう7時間を経過して、おそらく災害派遣の経験も少なく、他の普通科連隊に比べれば訓練も装備も劣るにちがいないわずか250人の砲兵が、焦土と化した神戸に入ったのである。

方面総監部は、なぜ精強な伊丹連隊を投入しなかったのであろうか。

災害の規模はわかっても被災地域の詳細が不明であったから、とりあえず姫路連隊を西から入れ、伊丹連隊を西宮や芦屋〈あしや〉などの東部地域へ、と考えたのであろうか。

しかし新聞を見る限り、伊丹連隊が姫路連隊と同時刻に東部被災地で行動を起こしたという報道はない。唯一、少人数で崩落した伊丹駅舎の救出に向かったという記事があるだけである。

政府の不見識、自治体の躊躇、自衛隊の不適切な用兵――ともあれこの三つ謎がもたらした7時間の空白の間に、老いた父母は絶命し、子供らは泣き叫びながら業火〈ごうか〉に焼かれた。

なすすべもなく父母の名を呼び続け、あるいは生けるわが子の上に押し寄せてくる炎をただ呪うしかなかった親には、憲法も自衛隊法も、選挙も政争もありはしない。そこには生と死しかなかった。謎を合理的に説明して欲しいと思うのは、ひとり私ばかりではなかろう。

豪雨の中に仁王立ちに立って、「市ヶ谷は遅い!」と怒鳴った施設隊長の姿が目にうかぶ。20数年前のあの夜、ほんのささいな鉄砲水に対して自衛隊を動かしたのは、田中角栄内閣であった。

私の最も嫌悪する政治家の実力に思いをいたせば、とまどいを禁じ得ない。

(初出/週刊現代1995年2月4日号)

掲載号をめぐるちょっとした事件

「非常について」が掲載されたとき、編集部内でちょっとした事件があった。

このエッセイが載った週刊現代が発売になった日の朝、週刊現代が属する第一編集局の局長が編集部に怒鳴り込んできた。

「この『勇気凛々ルリの色』の担当は誰だ? なぜ、これを巻頭にしなかったんだ! この原稿のすごさがわかんねえのか!」

局長は、週刊現代編集長や数々の物議を醸した雑誌「PENTHOUSE」の創刊編集長を務めた名物編集者だった。怒りまくる局長に、「そんなこと言ったって、雑誌の編成を決めるのは編集長ですからね」と反論すると、「そんなことはわかってる。これがいい原稿だとわかってるんなら、なぜおまえは、ぜひ巻頭にしてくれと押さなかったんだと言ってるんだよ」と、重ねて怒鳴られた。ぐーの音も出ず、あやまるしかなかった。

とはいえ、連載開始から約4ヵ月、まだ無名に近かった浅田さんのエッセイをそれほど評価してもらったことはうれしくて、あやまりながらにんまりしてしまったことを覚えている。

この阪神・淡路大震災、そして、2011年3月11日に発生した東日本大震災での救助活動によって、自衛隊に対する社会の目が好意的なものに変わったことは確かだろう。昭和40年代、自衛官の息子だった私は、小学校で地元の子たちとケンカになると、「税金泥棒」「無駄飯くらい」を揶揄され、たとえケンカに勝っても心の中はもやもやしていた。振り返ると昔日の感がある。

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

この記事のライター

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