1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第48回。作家が「人間は自ら死すべき理由などあるはない」と強く思うきっかけとなった、ある事件について。
画像ギャラリー「生命力について」
身近に死なれた記憶は忘れ難い
わが国の自殺者は毎年2万人を数える。
ということは、ほぼ6000人に1人の割合で自殺をする計算になる。この数字が交通事故死の倍であることを考えると、何だか咽(のど)の渇く感じがする。
さらに咽の渇く計算を試みれば、本誌の読者のうちからも毎年100名以上の自殺者が出ていることになる。そこで、今回はこの百数十名のために稿を起こそうかと思う。
私は相当にみじめな人生を送って来たので、確率以上に大勢の自殺者を知っている。だから先日、例の自殺の方法を解説した奇書が発売されたとき、なんという節操のない書物であろうと呆れた。
2万部の売り上げははなから見込めるのである。潜在的願望者は、おそらくその10倍はいるであろう。つまり、その書物は発売前からベストセラーを約束されているようなもので、もしそうした計算の上に出版されたものであるとしたら、まさに不倶戴天(ふぐたいてん)のインモラル本であると考えた。
ともあれ人生の悲哀をいくらかでも味わってきた者ならば、この書物は興味をそそられるより先に、まず怒りを覚えた筈(はず)である。私も職業柄、ひととおり目を通したが、ページを繰るごとにかつて睡眠薬を呷(あお)って死んだ女や、車に排気ガスを引き込んで一家心中した男や、頭を撃ち抜いて死んだ知人のことが思い出されて、たまらない気分になった。
著者も編集スタッフも、たぶんずっと食うに困らなかった、上流階級の住人だろうと思う。すでに売れてしまったものはしかたないが、売れさえすれば何でも良いという無節操な姿勢だけは、どうか自省して欲しいものである。少なくとも読者を勇気づけることだけは、いやしくも言葉で飯を食う者の使命であろう。
ところで、この種の訃報に接するたび、人間の生命力について考えさせられる。「ふしぎと生きている」私からすると、彼らの死ぬ理由がどれもたわいのないものに思えてしまうからである。
もちろん他人の苦悩を無責任に推量してはなるまい。死ぬべき理由は死んだ本人にしかわからないのだから。ただ、人間にはたとえば植物の自然にたいする耐性のような、原始的な生命力が、誰にも生まれついて備わっていると思うのである。
これは肉体の頑健さとか気の強さとはちがう。なぜなら、自殺者はたいてい「飢寒こもごも迫り、溝壑(こうがく)に輾転(てんてん)とする」ようには死なず、ある日いともアッサリと死んでしまうからである。
つまり原因の普遍的な重みというよりも、社会的にも病理的にも不可知な「生命力」の欠損によって自殺してしまうように思えるのだ。ひるがえって言えば、人間はその人間たる名誉と尊厳において、自ら死すべき理由などあるはずはないのである。
さて、我が身を省みるに、自分が死に損なった経験は意外と忘れてしまうものだが、身近で死なれた記憶は忘れ難い。終生つきまとう傷といえば、明らかに後者であろう。
こんなことがあった。百貨店を相手にけっこうな商売をしていたころのことである。
「折入った相談」があると誘われて
ある夜、私は歳末バーゲンに備えて、売り場担当の店員と会場設営の残業をしていた。店員は20代後半の、まじめでたいへん仕事のできる男であった。他の業者や店員たちがみんな帰ってしまってからも、私と彼はショーケースを入れ替えたり、商品を並べ替えたりして夜も11時を過ぎた。
もうこれでよかろうと思ったころ、彼は実にさりげなく、「ご苦労さん。どうです、1杯やって行きませんか。ちょっと折入って相談もあるし」と、私を誘った。
百貨店の店員の「折入った相談」がどういう意味合いのものであるかは、経験上よく知っていた。しかし、仕入担当者(バイヤー)やお偉方の「折入った相談」ならやぶさかではないが、何ら実権のない若い店員にまでたかられるいわれはない。
(このやろう、そのために残業していたな)と、私はとっさに考えた。出入り業者にたかるのは彼らの習性なのであある。
たまたま翌日が系列店のゴルフコンペだったので、それを理由にして私は誘いを断った。彼は何だかなごり惜しそうに、駅までの道をついて来た。冬の夜更けのことで冷えるのは当たり前なのだが、彼はみちみち「寒い寒い」と言い続け、しきりに体を慄(ふる)わせていた。
そんなしぐささえも、「寒いから一杯やって行こう」と未練がましく言っているように思えて、私は全く意に介さず、とっとと改札をくぐった。
帰らないんですか、と訊くと彼は、一人で飲んで行く、と答えた。そしてなぜか、階段を昇って行く私を、ずっと見送っていた。凩(こがらし)の鳴る踊り場で振り返って、ずいぶんしつこいやつだな、と思った。
今でも考える。彼は何を訊きたかったのかと
翌日は系列店の共通店休日で、早朝から行きたくもないゴルフコンペに参加しなければならなかった。一日中おべんちゃらを言い続け、いちいち「ナイスショット!」の連呼をしなければならない、つまらぬゴルフだ。
ハーフを回って昼食をとったとき、同席したバイヤーがふいに愕(おどろ)くべきことを言った。
「そうそう、知ってるかい。ゆうべ○○店の店員が飛び込み自殺したんだと」
一瞬、私はかなり革新的に昨夜の出来事を思い出した。
「残業した帰りにさ、酔っ払って線路に飛び降りてね。バンザイして電車に走ってったんだってよ――ああ、そう言えばおたくも○○店には入れてるんだろ、なら知ってるよな、☓☓って若い担当」
もはや名前を聞くまでもなかった。なにしろ遅くまで残業していた店員は、彼ひとりだったのだから。
彼の死の理由は知らない。いや、そんなことはどうでもいいのだ。彼はあの晩、如才ない出入り業者のひとりに、たいして親しくはないがいつも冗談ばかり言って女子店員を笑わせるのがお得意のひとりの男に、何事かのっぴきならぬ相談を持ちかけようとしたことは確かなのだった。
金の無心であったのかもしれない。失恋の痛手を語りたかったのかもしてない。仕事上の、たとえば売り上げノルマとか人間関係に悩んでいたのかもしれない。
しかしそんな理由などどうでもいいのだ。ともかく私は命の相談を袖にし、とりあえずはつながる彼の生命力を、そうとは知らずに断ち切った。そのことにまちがいはない。
さきに「死に損なった経験は忘れてしまうが、死なれた記憶は忘れ難い」と、私の言ったのは、このことである。
以来、二度とその店に足を運ぶ気になれず、取引もやめた。
十何年を経た今ですら、買い物に行くことなどもってのほか、その駅に下り立つこともしない。
そしていまだにしばしば考えこむことがある。彼はいったいあの晩、私に何を言おうとし、何を訊きたかったのか。ひとりぼっちでどんなふうにまずい酒を飲み、何を考えて冬のホームから飛び降り、バンザイをしたまま電車に向かって走ったのか、と――。
ちなみに、その後私は百貨店の店員から「折入って相談がある」と言われれば、万難を排してつき合うハメになった。そのためにいったいいくらの酒代とお車代をムシリ取られたかわからない。今さら詮ないことだが。これもまた彼のつたない生命力のせいである。
どんな悪逆非道の、あるいはくすぶった人間でも、自分で思いつめるほど他人の迷惑になってはいない。しかし、死なれれば周囲の人間は一生迷惑する。
それだけは確かだ。
(初出/週刊現代1994年11月19日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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