今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。…
画像ギャラリー今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。もう一つ大事なのは“読むゴルフ”なのだ」という言葉を残した夏坂さん。その彼が円熟期を迎えた頃に著した珠玉のエッセイ『ナイス・ボギー』を復刻版としてお届けします。
夏坂健の読むゴルフ「ナイス・ボギー」その19 水に流せない事件
オーガスタ12番には「パーマーの便所」が
「トイレは、どこにある?」
磨き上げたガラスのような11番グリーンを2パットで凌いだアーノルド・パーマーが、ファジー・ゼラーに近寄って尋ねた。
「トイレ? 確か15番にあったと思うけど」
「駄目だ、待てない!」
切迫した声に驚いてパーマーを見ると、顔面蒼白、貧乏ゆすり、視線までが宙に浮いている。
「どっちなの?」
「御叱呼」
「100ドル、取られちゃうよ」
「10000ドルでも構わない気分だ」
立ちションは罰金と、選手規定にも明記されているが、多少のカネで済むことなら、いまこの場で爽快な解放感に浸りたいほど事態は急を告げていた。
「次の12番ティの右奥にでも飛び込んだらどうだい? あそこは人もいないし、茂みも深い」
「ありがとう、ファジー。これまでの中で、きょうのアドバイスが一番だ」
全員のホールアウトを見届けるや否や、彼は脱兎の如く12番の茂みに走り込んだ。この行為に対して「マスターズ」の運営委員会は一切お咎めなし、それどころか翌年の開幕までに、12番の記念すべき場所に立派なトイレが設置されてあった。
「マスターズの役員たちは、これまでにもパーマーとニクラウスに限って、数え切れないほどの特典を与えてきた。オーガスタ・ナショナルには、2人のためのルールと、それ以外の選手にあてがわれる一般的ルールの2種類が存在すること、いまや常識とされる。さらに今回、パーマーの立ちションの記念碑が建立されるに及んで、そのへつらいぶりには苦笑するばかりだ。
もし私の意見が歪んでいるとお思いなら、たとえば6番の茂みにレイ・フロイドを立たせてみよう。来年、あそこにトイレが建つだろうか? いや、彼らは100ドルの罰金を科した上、来年からはフロイドに2人の役員が密着するはずだ。ところ構わず伝家の宝刀を抜かせないためにね」
ビル・マークスのコラム、「パーマーの便所」がそのまま12番の瀟洒な建物の愛称となっていまに残る。
チチ・ロドリゲスの場合、ニューメキシコでの試合中に我慢の限界を迎えた。具合が悪いことに、周囲はサボテンばかりで茂みがない。ここは一番、ギャラリーに見て見ぬふりの協力を仰ぐとして、彼はサボテンの根に注水を開始した。そのとき、前方に2人の娘さんが立ってクスクス笑いを漏らしているのに気がついた。しかし、噴水は急に止まらない。
「やあ、お嬢さん方!」
彼は決まり悪そうにチャックを閉じながら、お世辞で苦境を取り繕うことにした。
「2人揃って、楽しそうですね」
すると、横にいた初老の婦人がニべもなく言った。
「あの年ごろは、ちっぽけなものを見ても笑うって、あんた知らないの?」
チチにとって、この冷笑は罰金以上のペナルティだった。
多くの女子選手が告白するように、ときとして屋外競技のゴルフが恨めしく思えることもある。1977年のナパ・カリフォルニア・レディース選手権では、首位を行くA・M嬢が14番で棄権を宣言すると、いきなりクラブハウスめがけて走り去った。
「スタート前にアイスミルクを飲むなんて、本当に私はバカな女!」
試合終了後、幻のチャンピオンはさめざめと泣き続けた。
古いところでは、1926年の全英女子選手権に出場していた14人が、次々に腹痛を訴えて退場する騒ぎ。どうやらスタート前に食べたサンドイッチの中味に問題があったらしい。この事件がきっかけとなって、コース内にもトイレを設置すべきだと女子ゴルフ連盟は狼煙をあげたが、例によってスコットランド、イングランドのゴルフ場からは色よい返事が戻ってこない。
1966年のウィンブルドン・レディース選手権では、ついにたまらず、32歳の美人選手が茂みに走り込む珍事が発生した。この報告を受けた本部では、直ちに鳩首会議を開いて「退場処分」と決めた。やってきた役員に、聡明な彼女はこう答えた。
「気分が悪くて吐きそうになっただけ。それが退場だなんて、少しオーバーすぎないかしら?」
もちろん、ゲームは続行された。
表向き、ゴルフはのどかに発展してきたが、水面下では常にトイレの問題が渦を巻き、その都度真剣に論議されないまま、ペーパーの如く水に流されるのがオチだった。
「なぜトイレがない?」への長老の回答とは?
まだフェザーボールが全盛だった時代、ノース・ベリックのクラブハウスに一枚の掲示が貼られた。
「ゴルファー諸君に告ぐ。一刻も早く球打ちに取りかかりたい気持ちはよくわかる。しかし、ちょっと待て。たとえ催していなくてもトイレに寄るのが紳士の嗜み、時間のかかる話ではない。とくに海岸は淑女たちの散歩道、このところ『貧相なお道具』のチン列に苦情しきりである。よってここにコース内での用足し厳禁を通達する」
1882年とあるから、クラブが結成されて50年目のこと。ノース・ベリックといえばリンクスに広がる36ホールの名門。東コースの突き当たりに若干の茂みがあるだけで、一望の眺めは立ちションに具合が悪い状況だった。つまり、催した者は海に向かって立つ按配になるが、一段低い浜辺には散策を楽しむ市民がいる。ときには、
「頭上から飛沫が降ってきた。どうしてくれるんだ!」
と、クラブに怒鳴り込む者もいた。
一方、1927年10月号の「アメリカン・ゴルファー」誌に、初めて本場スコットランドの特集記事が掲載されたが、奇しくも文中、早くも「トイレ事情」が紹介されている。
「この国でプレーする場合、以下に述べる3項目だけは厳守しなければならない。まず雨傘の用意、ハンディの数だけのボール、そしてスタート前、必ずトイレに行くことだ。
もし途中で猶予ならざる事態に追い込まれたとしよう。きみは心底、この国の非人道的仕打ちに立腹するはずだ。何しろ身を隠す樹木とて見当たらない茫洋のリンクスに、稀に建っていても資材置場だけ、ただの1ヵ所としてトイレがないのである。この不都合を地元民にただしたところ、彼らは哄笑しながら次のように答えた。
『見渡す限りがトイレだ。なぜ狭い場所に入りたがるのだろう。どこかに劣等感でもあるのかね?』
私には、それを笑うだけの勇気がなかった」(マーク・ルピノ記者)
この記事から60年近く経過した1982年、オーストラリアの「トラベル・ジャーナル」では、ゴルフの聖地巡礼の旅を特集した。それによると、ハイランド98ゴルフ場のうち、「コース内にトイレがある」と答えたのは僅か3コースにすぎなかった。
あんなもの、ただポツンと建てればいいだけのこと、なぜ何世紀にもわたって設置を拒むのか、そのあたりをスコットランド・ゴルフ界の長老に尋ねたところ、醤油で煮しめたような爺さんがウィンクして曰く、
「バカだねェ。トイレを作ったら、オンナが押し寄せてくるじゃないか」
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1936年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。
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