浅田次郎の名エッセイ

無類のめんたいこ好き・浅田次郎の”消えためんたいこ”

バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時…

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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。

この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第71回は「消えためんたいこについて」。

「か、からいっ! でも、おいしいっ」

私はめんたいこが好きだ。

駅のキヨスクとかデパートの食品売場とか、目にするそばから買ってしまうので、冷蔵庫の中には常に3箱ぐらいの在庫がある。

むろん古い在庫は食べつくす間もなく捨てられてしまうのであるが、これは必ずしも古い方の賞味期間が過ぎたからではなく、また味覚の優劣にかかわるものでもなく、「女とめんたいこは後発有利」という私の生活原則に基く。

めんたいこの魅力は、すなわちその卓抜したオリジナリティにある。いったいいつの時代にどこの誰が、魚卵を唐辛子に漬けこむなどということを思いついたのであろう。

かつて自民党と旧社会党が一緒くたになって村山内閣が成立したとき、私はたちまちめんたいこのオリジナリティを想起し、もしかしたら奇跡の味覚が出現するかもしれないと期待したが、やっぱりまずかった。

たぶん当時の自民党幹部の誰かが、めんたいこを食いながら思いついたアイデアだとは思うが、要するに私利私欲にかまけた政党の離合集散など一腹(ひとはら)のめんたいこの味にすら及ばない、ということであろう。

それにしても、めんたいこは旨い。

恋人との最初の出会いをふしぎと覚えているように、私は初めてめんたいこを口にしたときのことをはっきりと記憶している。

高校二年の夏、九州に出張した知人から手みやげにいただいたのである。木箱にぎっしりと詰められた、たいそう立派なおみやげであった。

30年前のその当時には、今日のように地方物産がボーダーレスに売られてはおらず、東京人のほとんどは「博多めんたいこ」なるものの存在すら知らなかった。

「めんたいこ、って、タイの子かしらねえ」

と、木箱の蓋を開けながら母は言った。

とりあえずは食べてみようということになり、私と母はちょうどタラコを食う感じで、本漬けのツユが滴り落ちるめんたいこをバクリと頰張ってしまったのであった。

当時は地方物産品が手に入らぬと同時に、エスニック料理も存在してはいなかった。キムチやナムルですら市民権を獲得していなかったのである。私たちの舌は辛いものには慣れていなかった。

で、そのとたん私と母は、ゴジラの母と子のように向き合って火を吐いた。

「か、からいっ! でも、おいしいっ」

と母は叫んだ。そしてやおら冷蔵庫から冷えたビールを持ち出して、真昼間から酒盛りを始めた。

「か、かれえっ。でも、うめえ!」

私は矢も楯もたまらずにお勝手へと走り、どんぶり飯をよそってきた。

かくてこの日から、母子はめんたいこの虜(とりこ)になったのである。

ほどなくめんたいこは東京人の食卓を席捲したが、今日スーパー等で廉価(れんか)に販売されているものの多くは、タラコにタレをまぶしただけの贋物である。めんたいこは博多名産の本漬けに限る。

さて過日、母は多年にわたるめんたいこの食いすぎがたたって肝臓をこわし、その入院を見届けた伜(せがれ)は、皮肉なことに博多における講演会へと旅立ったのであった。

検査を前にしてプレッシャーのかかった母は私の手を握り、「次郎ちゃん、めんたいこを」と言った。

言われなくたって買ってくるのである。ただし今回ばかりは、母へのみやげにはできない。

「おかあさん。僕は講演のために博多に行くんですよ。めんたいこを買いに行くんじゃない」

「うそ。おまえは何て噓をつくのがへたなの。それでよく小説家になんかなれたわね」

「……と、申しますと」

「めんたいこ、と顔に書いてあるわ。おまえは講演にこと寄せてホヤホヤの本漬けを買いに行こうとしているにちがいない。いえ、めんたいこを買うついでに、講演をしてくるにちがいないわ。白状おし」

というわけで、私はみやげの約束を強要された末、博多に向かったのであった。

講演の勧進元である日経新聞社、ならびに当日お越し下さった大勢のお客様に念のため言っておくが、私はめんたいこを買うついでに講演をしたわけではない。あくまで講演のついでにめんたいこを買ったのである。

そう、たしかに買ったのだ。

できたてホヤホヤを熱いごはんに載せてのはずが

日帰りのタイトなスケジュールで、専門店に立ち寄る時間はなかったが、福岡空港の売店でまちがいなく、「極上本漬」と銘打った最高級のめんたいこを買ったのである。うんと高かった。

めんたいこマニアである私は、知る人ぞ知る地方物産マニアでもある。このときも刻々と迫るフライト時間の中で、あわただしく「長浜ラーメン」「玄界灘のウルメイワシ」等を買いあさった。

会計をおえたあと、巨大な箱菓子が目に止まった。ご存じの方も多いと思うが、市販のパッケージの十倍ぐらいでかいギャグ菓子である。1個1000円はシャレにしたって高いが、ハデさとデカさを美徳としている私は、ひそかにこの種の「地方限定菓子」を蒐集(しゅうしゆう)しているのであった。

「子供のみやげに」と言いわけをしつつ買ったものは、「博多限定めんたいこプリッツ」と、同「めんたいこおっとっと」である。販売員はいったん会計をおえたおみやげを大きな袋に詰めかえてくれた。

どうやらまちがいはこのときに起こったらしいのである。

私は旅から帰ると家族を叩き起こし、地方物産品を開陳しつついちいち説明をするという癖がある。たとえば、

「これが博多名物長浜ラーメンたい。白く濁ったトンコツスープに紅ショウガば載せて食うばい。食べてみらんね」

などと言う。なにぶん小説がなかなか売れず、その間営業が長かったせいでサービスは過剰なのである。

ひと通りの商品説明をおえたあとで、私はギクリと凍りついた。肝心の「極上本漬」がない。どこをどう探しても見当たらない。

自慢じゃないが記憶力には自信がある。「神経衰弱」をやらせたら誰にも負けない。しかしどういうわけか、落とし物、忘れ物が多い。(この点については例を上げればキリがないので、お知りになりたい方は文庫本『勇気凜凜ルリの色』第一巻P.206「忘却について」https://otonano-shumatsu.com/articles/267832を参照のこと)

「なにかまた、お忘れ物?」

と家人はおそるおそる私の顔色を窺った。

「め、め、めんたいこが、ない……」

「ええっ、それじゃいったい何のために博多まで行ったのか、わからないじゃないですか」

私は頭を抱えつつ、記憶を巻き戻した。ハイヤーの中? ──いやちがう。客が降りたあと、運転手は必ずリア・シートを点検する。飛行機の中? ──いや、みやげ物の入った紙袋は荷物入れには入れず、足元に置いていた。

疑わしきはただひとつ、「博多限定めんたいこプリッツ」と「めんたいこおっとっと」を買い足した折、袋を詰めかえたそのときしか考えられなかった。

ものすごく悔やしかった。銭金ではないのである。そりゃ多少はそれもあるけれど、買った以上は私の所有にかかるめんたいこが、今も福岡空港の売店にあるのかと思うと、悔やしくてならなかった。

たしかにキヨスクやデパートの食品売場に行けば、同種のめんたいこはあるであろう。しかし、できたてのホヤホヤではない。私が福岡での講演を日帰りとした真実の理由は、ホヤホヤのめんたいこをその日のうちに、熱いごはんに載せて食いたかったからである。

これより母の見舞に行く。手みやげには「博多限定めんたいこおっとっと」を持って行くが、おそらく私の顔にうかぶ屈辱の表情を、母は見のがしはしないであろう。

「これじゃごはんのおかずにならないね」と肩を落とす姿は見るに忍びない。

ああ、めんたいこ。

(初出/週刊現代1998年7月25日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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