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1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第13回は、ベストセラー作家への階段を駆け挙げる直前、浅田さんがやらかした失敗談とその心温まる結末を。

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「忘却について」

小説のことで頭がいっぱいなので

一日じゅう小説のことで頭がいっぱいである。

さあ書くぞ、と原稿用紙を広げたとたん泉の如く物語が溢れるなどという文学的才能はてんでないので、寝ても覚めても頭の中で小説を書いていなければならない。

ストーリーの構築はもちろんのこと、キャラクターの創造とか比喩的な描写とか、十八番のクサいセリフとか、まったく朝から晩まで考えあぐねている。夜中にフト思いつく場合も多々あるので、枕元には常にペンとノートが置いてある。

実は今、例によってごたいそうな社会派エッセイをブチかまそうとして哲学者のような顔をしていたら、茶を淹(い)れにきた家人がヘッヘッと嗤(わら)った。

「偉そうなことは偉い先生が書きゃいいんだから、あんたはあんたのことを書きゃいいのよ。それが一番面白いのよ」

と、言う。

ごもっともである。そこで今回は哲学も下ネタもやめ、家人が何よりも面白いと言ってきかぬ私自身の妙なクセについて、とりあえず書いてみる。ただし、私自身はちっとも面白いことだとは思わない。

一日じゅう小説のことで頭がいっぱいなのである。だから興が乗ると、世の中の瑣事(さじ)をことごとく忘却してしまう。はたから見るとそういうときの私が面白いらしい。

たとえば先日、こんなことがあった。

田園都市線青葉台駅付近に住まうさる取材協力者とようやく連絡がとれたので、とるものもとりあえず家人を伴って車を飛ばした。戦前の北京の風物について語って下さるという、貴重な取材である。わが家人は静岡県浜松付近の茶畑の産であるにも拘らず、ナゼか多国語をあやつる。で、このときもてっとり早く北京語の同時通訳のつもりで同伴したのであった。

貴重な証言者とようやくコンタクトがとれた興奮で、問答無用に着のみ着のままの家人を乗せて走り出してから気付いた。考えてみれば先方は日本人なのであった。

私の余りのそそっかしさに家人はブーブーと不平を言ったが、車はすでに猛スピードでルート246を突っ走っており、今さら送り返す時間の余裕はなかった。

まあ夫婦同伴というのも礼儀正しくていいじゃないか、と言うと、ちっとも良かないわよ、と家人は憤る。フト見れば、夕飯も食いおえた時刻のこととて、家人はスッピンにサンダルばき、トレーニングウェア状の普段着を着ているのであった。

夫婦はお互いの無思慮をあしざまに罵り合いつつ青葉台駅付近に至った。もはや言い争っている場合ではない。そこで私は、いつものように口先だけで非を詫び、しばし2時間ほどここで待てと、路傍のドトールコーヒーの店先に車を止めた。2時間の無聊(ぶりょう)は苦しかろうから、ダッシュボードに入れてあった髙村薫著「照柿」を授けた。いかな速読家でもよもや2時間では手に負えまい。かくて私は心おきなく過ぎにし時代の取材へと向かったのであった。

長く北京に住まわれた古老の話は誠に興味深かった。愕(おどろ)くほどに正確な記憶は話しながらさらに喚起されるようで、私の取材帳はたちまち貴重な証言にうずめつくされた。

2時間の後に辞去した私の頭の中は、北京の抜けるような青空や入り組んだ胡同(こどう)のたたずまいや、夕日に映える紫禁城の甍(いらか)や黄塵の帳(とばり)やらでいっぱいだった。登場人物は新たな舞台を与えられて一斉に立ち上がり、私自身思いもつかなかったストーリーを築き始めた──。

しかし何かを忘れている

ルート246をいいかげん走ってから、私はふと、胸の中の釈然とせぬわだかまりに気付いた。

質問すべきことは全てしたはずである。しかし何かを忘れている。

いったん車を止めて取材帳を点検した。聞き洩らしたことはないはずだが、やはり何か重大なものを忘れているような気がする。まあいいか、と再びいいかげん走ってからようやく思い当たった。ドトールコーヒーに家人を忘れてきたのであった。

長い道のりをとって返すのもしち面倒くさい気がしたが、このまま帰宅して書斎にこもるのも気が引ける。第一、娘や母に行方しれずになった家人の所在を尋ねられて、まさか青葉台のドトールコーヒーに忘れてきましたとは言えない。

そこでやむなくルート246梶ケ谷付近において豪快なUターンを決め、元来た道を引き返した。

車窓に凩(こがらし)の鳴る寒い晩であった。夜更けの商店街はあらかたシャッターを下ろしており、冬枯れた街路樹の下を人々は肩をすくめて家路についていた。

灯を消したコーヒーショップの前で彼女は待っていた。見るだに寒々しいトレーニングウェアとサンダルばきのまま、ガードレールに腰を下ろして、彼女はじっと本を読んでいた。

道路の向かいに車を止めて、私は一瞬その後ろ姿に声をかけためらった。街灯の丸い輪の中にちょこんと座っている彼女が何だか妙に学生っぽく見え、たとえば20年もずっとそうして私を待っていたような気がした。

再び豪快なUターンを決め、やっぱり42歳であった家人を車中に迎え入れた。弁解を言う間もなく彼女は言った。

「あなた、忘れてたんでしょう」

それから半ばを読みおえた「照柿」にしおりをはさみ、溜息とともにこうも言った。

「こういう小説、書けるといいね」

励ましだかイヤミだか知らんが、言葉はズシリと身に応えた。亭主の忘却癖を面白がり、ついでにカウンター・ブロウを一発見舞うようになるまでには、彼女も20年の時を要したのであろう。

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行方不明の愛車の謎...
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