1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛々ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
今週から、この平成の名エッセイの精髄(せいずい)を、ベストセレクションとしてお送りします。読めば、一日元気になれる栄養エッセイ、ぜひご賞味ください。リバイバル連載の第1回は、浅田さんの作家としての大躍進が始まった日の爆笑の顛末を書いた「こうなった経緯について」をお送りします。
「こうなった経緯について」
怪しい男からの電話
目下のところ売れない小説家の標本である私あてに、「週刊現代」から執筆の依頼があったのは、しとしとと不吉な雨の降る夕まぐれであった。
家人が、週刊なんとかから電話よ、と言ったので、てっきり実話系週刊誌かと思ったら、カタギの人が読むメジャー誌であった。
快挙である。思わず声もテノールになり、日ごろ使いなれぬ標準語を巧みに操って応対に出た。
連載エッセイを、という依頼に私は驚愕した。エッセイといえば、鴨長明(かものちょうめい)の昔から当代の文化人が書くものと相場が決っている。
もしや私に恨みを持つ男が、講談社社員を騙(かた)って私をおびき出そうと企んでいるのではないかとの疑念が、フト頭をかすめた。
あんた、気をつけた方がいいわよ、と受話器のかたわらで家人も囁(ささや)いた。かつて旨(うま)い話に乗せられて待ち合わせ場所から拉致(らち)された経験があった。その逆も何度かやった。
いちおう危機回避の手順として、「そういうお話でしたら、こちらから御社に出向きましょう」と言うと、「いやそれには及びません、こちらから出向きます」と答える。いよいよ怪しい、と私は思った。
カタギに見える男が現れたが……
数日後、またしてもしとしとと不吉な雨の降る夕刻に、肚(はら)をくくって出かけた。待ち合わせ場所に指定された新宿の喫茶店は怪しい店だった。
入口が目立たぬ割に店内が豪華であり、コーヒーが一杯千円もするのに、なぜか満卓なのであった。要するに客の多くは黄金のブレスレットをしており、「店内での携帯電話のご使用は堅くお断りします」と書いてあるような店なのであった。
待つべきか去るべきかの決断は難しかった。命は惜しいが名も惜しい。今生の飲みおさめになるかも知れぬコーヒーを啜(すす)りながら、私は五分間の恐怖に良く耐えた。
やがて、まちがいなくカタギに見える男がやってきて丁重な挨拶をした。だが、ここで安心してはいけない。かつての経験から言えば、拉致する際の常套(じょうとう)手段はこれなのである。
いかにも人畜無害の男にそうして間を繕(つくろ)わせておき、油断した頃合を見計らってから、サッと両脇を固める。つまり警戒心を解かせ、抵抗や逃走のタイミングをずらすのである。で、おもむろに、「浅、久しぶりやな。話の続きは事務所でしよやないの」ということになる。
―などと考えながらあたりに目を配れば、心なしかどのボックスの客も、かつてどこかで見覚えのある顔に思えてくるのであった。
男は講談社の名刺を差し出した。少しホッとしたが、たちまち私が以前逆の立場から伊藤忠商事の名刺を差し出したことなんぞを思い出し、まだ油断はならぬと考えた。
すっかり警戒心を解くまでには、しばらくの時間が必要であった。