大学受験に失敗し、自衛官に
さて、私のことを全然知らないほとんどの読者のために、ここで私個人について多少の説明を加えねばなるまい。
一言でいえば、小説家になりたい一心で小説のような人生を歩んでしまった気の毒な男である。
子供のころからどうしても小説家になりたいと思いつめ、その他の未来などただの一度も考えたことはなかった。私自身の名誉のために、まずそれだけは言っておく。
勉強はあまりしなかったが、読み書きの修行はおさおさ怠りなく続けていた。ために大学受験を失敗し、浪々の身であった折しも、当時われらの偶像的作家であった三島由紀夫が市ヶ谷で腹を切った。
しかし、私がその翌春に自衛隊に入隊したことと三島の死は、いっけん関係があるようで実は全然ない。
私はたまたま二度目の受験にも失敗し、食いつめて自衛官になったのである。強いて言うなら、べつに急ぐ人生でもなし、このさい体でも鍛えて将来に備えるべえ、という安直な動機であった。
もともと世にも珍しい体育会系の文学青年であった。すなわち根が好きであったから、自衛隊生活はおあつらえ向きに似合ってしまった。
二年の後、このままでは小説家にならずに忠勇無双の下士官になってしまう身の危険を感じた私は、何となく惚れた女と別れる感じで自衛隊を去った。
ところで、私がめでたく社会復帰した当時の世相は学生運動もたけなわのころ、若者はみな鶴の如く痩せており、非衛生で理屈っぽく、鉄パイプを握って徒党を組まねば満足にケンカもできなかった。そういう心身のありようが、いわば青春のステータスであった。
小説家になるために選んだ職業?
そんな社会のただなかに、忠勇無双の兵隊が突如として復帰したのである。ほとんど異星人であった。朝六時には目が覚めてしまう。夜の十時には眠くなってしまう。運動をしていなければ頭がどうかなってしまいそうで、ハッと気付くと体が勝手に動いて腕立て伏せとか腹筋運動をしている。要するに当時の常識から言えばかなり重症の「健康病患者」であった。
ともかく二年間の文学的な遅れを取り戻させねばならぬので、再就職に際してはまずその点を第一義に考えた。週休二日制など夢物語の時代である。小説を書くには何よりも時間が必要なので、ふつうの勤め人は適当ではないと思い、ふつうでない勤め人になった。
ふつうでない、とは、多少の身体的リスクを伴ってもそのぶん時間の余裕があり、なおかつ実入りの良い職業、というほどの意味である。
こうした都合の良い条件に適合する仕事というと、つまり、借金取りとか、用心棒とか、私立探偵とか、ボッタクリバーの客引きとか、ネズミ講の講元とかいう限定を必然的にうけるのである。
まずいことには、どうしたわけかこの手の職業もおあつらえ向きに似合ってしまった。
以来苦節二十年、その間セッセと書いた甘い恋愛小説は、ナゼかというか当然というかいっこうに日の目を見ず、講談社主催の懸賞小説もことごとくボツとなり、皮肉なことに斬った張ったの実体験集が私のデビュー作となった。
小説家になるために小説のような人生を歩んでしまったと先に述べたのは、つまりこういうことである。
「さまざまの経験をふまえて、ゼヒ面白いエッセイを……」
と、どうやら本物の講談社社員であるらしい男は言った。
言うのは簡単だが、出版社員と刺客との判別に恐々とするような人生を今さら振り返ることは辛い。
ここはひとつ勇気をふるって書き始めることにしよう。
(初出/週刊現代1994年9月24号)