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神奈川県横浜市と東京都町田市にまたがる多摩丘陵の東に位置する自然公園「こどもの国」。ここは、かつて旧日本帝国陸軍の弾薬庫が置かれていたところだ。ここから”弾薬”を運んでいた「軍用線」をルーツとするのが、「東急こどもの国線」である。2025年5月5日で開園60周年を迎えた“こどもの国”の歴史とともに歩み続ける、全長3.4kmの鉄道の歴史をふりかえってみたい。

※トップ画像は、アルミ製の電車が活躍していた頃の東急こどもの国線。冷房のない電車ゆえに、窓は開け放たれている=1981年8月4日、東急長津田駅(横浜市緑区)

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爆弾を隠すのに適した地の利

「こどもの国」(横浜市青葉区、東京都町田市)は都心から近く、自然豊かな園内には子どもの遊び場が点在する。ここにはかつて、旧日本陸軍の軍事施設「弾薬庫」が置かれていたところだ。そのむかし、小学校の遠足で何度か訪れたことがあったものの、そのような話は知る由もなかった。

正式名称は、「東京陸軍兵器補給廠(とうきょうりくぐんへいきほきゅうしょう)田奈填薬所(たなてんやくしょ)」という。この”田奈”の名は、周辺の地名である「恩田(おんだ)」、「長津田」の「田」と、「奈良町」の「奈」からつけられたもので、東急田園都市線の駅名にもなっている。

第二次世界大戦がはじまったころ、この地に弾薬を製造・貯蔵する軍事施設を建設することになり、多摩丘陵の東に位置し、雑木林に覆われた当地は、“爆弾”を隠すのには絶好の地の利だったのだろう。1938(昭和13)年頃に用地買収が行われ、1940(昭和15)年5月になると「東京陸軍兵器補給廠、田奈分廠(たなぶんしょう)」が発足。翌年には”田奈部隊”が駐屯を開始した。

1942(昭和17)年10月には、長津田駅(横浜市緑区)と現在の「こどもの国」の地にあった弾薬庫とを結ぶ「軍用線」が開通し、材料や完成した弾薬の輸送を行うようになった。この軍用線が、東急こどもの国線のルーツである。

先の大戦中は、応援部隊や学徒動員、徴用工など総勢3000人もの人々が働いていたとされる。 弾薬庫の周辺には、宿舎が設けられたほか、格納しきれない弾薬を保管する倉庫や、陸軍兵器学校の分校、長津田駅の近くにも軍需工場(弾薬を納める箱や防湿紙の工場)が存在していた。

緑区長津田町2285番地付近にある「こどもの国線」の長津田1号踏切。写真に見る線路の奥(右手)には、弾薬製造に関連した軍需工場があった=1981年8月4日、横浜市緑区

“強盗慶太”も狙っていた弾薬庫跡地

先の大戦が終わりを告げると、1945(昭和20)年10月に“田奈弾薬庫”はGHQに接収され、進駐軍(米軍)の弾薬庫として使用されるようになった。その後、1960(昭和35)年に弾薬庫の機能が、同じ神奈川県内の逗子市池子の地(現在の“池子の森”のあたり)に移ると、翌年(昭和36年)に接収が解除された。

この頃、多摩田園都市を開発していた“強盗慶太”の異名(企業買収で名を馳せた)を持つ五島慶太氏率いる東京急行電鉄は、田奈弾薬庫跡地を工業地区とすることを目論み、1957(昭和32)年と1960(昭和35)年に「同地と旧軍用線」の払下げを国に申請したが、実現には至らなかった。

時を同じくして、皇太子殿下(現在の上皇陛下)の御成婚記念事業として”田奈弾薬庫跡地”に「こどもの国」を建設することが決まり、これによりGHQによる接収は解除され、厚生省(現・厚生労働省)の管理となった。

「こどもの国」の地にあった田奈弾薬庫の概略図。図の2か所に「線路記号」が見られるが、左手が「こどもの国」正門付近にあった西谷積込場(第2工場)で、中央下が牧場口臨時駐車場付近の東谷積込場(第1工場)を示している=資料提供/JLNA
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こどもの国線の誕生
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