千葉駅からJR内房線で約50分の距離にある木更津駅(千葉県木更津市)。そこから房総半島の内陸部にある上総亀山駅(君津市)とを結んでいるのが「JR久留里線」である。東京から一番近いローカル路線であるいっぽう、JR東日本のなかでは“ワースト赤字路線”のレッテルを貼られる不採算路線だ。県営鉄道として開業(1912/大正元年)して以来、今年で113年を迎えるローカル線の歴史を辿ってみたい。
※トップ画像は、久留里線のディーゼルカー(キハE130系100番台)=2025年6月6日、平山駅~上総松丘駅間(君津市広岡)
4つの路線があった“千葉県営鉄道”
明治時代のこと、千葉県内は道路事情が悪く、鉄道の発展も遅れていた。そこで、当時の千葉県知事だった有吉忠一氏は、県が運営する鉄道の建設を推進した。千葉県営鉄道は、“人車軌道”と呼ばれる人力によって車両を手で押すものを含めれば”6路線”も存在した。
蒸気機関車により客車をけん引する鉄道は、1911(明治44)年に開通した野田線(現・東武アーバンパークライン/野田線)にはじまり、多古線(のちの成田鉄道多古線〔成田~八日市場〕→廃線)、久留里線(現・JR久留里線)、八街線(のちの成田鉄道八街線〔三里塚~八街〕→廃線)と、次々に路線を開業させた。このなかで、現在も走っているのは「野田線」と「久留里線」の2路線だけである。
鉄道の建設は、日本帝国陸軍の「鉄道連隊」によって行われ、当初は鉄道連隊から蒸気機関車なども借り入れて運行していたという。県営鉄道の名は、1946(昭和21)年の多古線の廃止によって消滅したが、千葉ニュータウンの開発に伴い1972(昭和47)年に千葉県市川市にある本八幡駅から印旛松虫(現・印西市にある印旛日本医大駅)までを結ぶ千葉県営鉄道「北千葉線」が計画され、一時期的ではあったが「県営鉄道」の名が復活したこともあった。
房総半島を横断する計画だった
久留里線の歴史は、1912(大正元)年12月28日に県営鉄道の路線として木更津駅と久留里駅間が開通したことにはじまる。線路の敷設工事は、日本帝国陸軍の鉄道連隊が訓練の一環として行い、レールの幅が762mm(JR在来線は1067mm)と小柄な「軽便鉄道」と呼ばれる規格で建設された。
1922(大正11)年になると、国が制定した鉄道建設予定線に房総半島を横断する路線として、「木更津駅から久留里駅、大多喜駅(千葉県大多喜町)を経由し大原駅(千葉県いすみ市)に至る鉄道」が計画された。このため千葉県は、翌年の1923(大正12)年に県営鉄道久留里線を、鉄道省(→国鉄→現JR)へ無償で譲り渡した。
鉄道省の路線となった久留里線は、1930(昭和5)年になるとレール幅を1067mmへと拡げ、1936(昭和11)年には現在の終点駅である上総亀山駅(君津市藤林)まで路線を延長した。予定線として計画された路線のうち、大多喜駅と大原駅間は、1930(昭和5)年に鉄道省木原線(現・いすみ鉄道)の一部区間として開通したが、久留里線が上総亀山駅から大多喜駅へと延伸することはなかった。結果、房総半島を横断する路線計画は、幻に終わった。