「三公社五現業」。昭和世代なら小学校の社会科で習った覚えがあるのではないだろうか。その5現業の一つが林業であり、山林から切り出した木材を供給していた。その木材の輸送手段として、日本で最初に開業した森林鉄道が「津軽森林鉄道」である。なぜ、青森の地に日本初の森林鉄道が誕生したのか、総延長283kmものレールが敷かれた森林鉄道の生い立ちに迫ってみたい。
※トップ画像は、かつて津軽半島を駆け巡っていた津軽森林鉄道。(撮影地・年次不明)=写真提供/中泊町博物館
「国有林野事業」のために国が敷設した鉄道
森林鉄道との出会いは、青森各地にある私鉄を巡る旅に出かけた時だった。青森市内で宿泊したホテルのとなりには、偶然にも「青森市森林博物館」があった。何気なく建物の中を覗くと、「小型の機関車と客車」が見えた。それはまさしく森林鉄道の車両だった。東京に戻り、気になってあれこれ調べてみると、そのディープな世界へと惹きこまれた。
森林鉄道と聞くと、森の中を走る観光鉄道のことを思い起こす方もおられることだろう。ここに登場する森林鉄道とは、「国有林野事業」のために国が敷設した鉄道のことだ。
“林業”と聞いて、昭和世代の方なら「三公社五現業」を思い出した方もいることだろう。三公社とは、国鉄(現JR)、専売公社(現JT)、電電公社(現NTT)で、五現業は「国有林野事業(林業)」、造幣(現・造幣局)、印刷(現・国立印刷局)、郵便(現・日本郵政)、アルコール専売(現・日本アルコール産業)のことだ。
今回取り上げる津軽森林鉄道は、この「林業」と切っても切れない関係にある鉄道なのである。
日本三大美林の一つ「ヒバ林」
本州の北端に位置する津軽半島には、“御留山(おとめやま)”と呼ばれた江戸幕府直轄の領地があり、この御留山とは林産物をはじめ動植物の捕獲を禁じた山を意味した。この山々は、日本三大美林の一つとして“木曽ヒノキ”、“秋田スギ”と並ぶ「青森ヒバ」の原産地として、その豊富な資源は保護・育成されてきたため、明治時代になってもそのほとんどは未開の地であったという。
1903(明治36)年に開戦した日露戦争を契機に国内の景気は好転し、木材需要が増加した。そこで木材の生産は、「国の直轄事業」として行うことになり、国家財政の一役を担う基幹産業へと変貌を遂げた。1906(明治39)年には、日本初の官営製材所が青森駅近くに完成し、青森ヒバ材の供給体制が整備されると、山々から切り出した木材の輸送体制の強化が急務となった。