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一番列車は、明治43年5月

当時の津軽半島における木材輸送は、流送といって河川に材木を流す「いかだ流し」が主流となっていた。しかし、雪深い青森では、流送できる期間が春先の増水期に限られるなど、計画的な林業経営が見込めない環境であった。そこで、木材輸送を鉄道が担うことで、安定的な林業経営が行われるようになった。この鉄道こそが、我が国初の森林鉄道として誕生した「津軽森林鉄道」なのである。

官営製材所の誕生から2年後の1908(明治41)年7月、津軽半島を縦断するように蟹田(外ヶ浜町)~今泉(中泊町)間の線路が完成すると、翌年11月には青森貯木場(青森駅付近)を起点に、蟹田、十三湖(じゅうさんこ)のある今泉、金木町(かなぎちょう)の南に位置する喜良市(きらいち)までの67kmが全通した。

津軽半島を真横に見た津軽森林鉄道の路線図。右上が青森駅で、左下の湖は十三湖=写真提供/中泊町博物館

一番列車が走ったのは、雪解けを待った全通の翌年1910(明治43)年5月のことで、蒸気機関車がけん引した「運材列車」による鉄道輸送が開始された。以降、支線を含めた総延長が283kmにもおよぶ森林鉄道網が完成した。釣り針のような形をした幹線(本線)を中心に、たくさんの支線が枝分かれしている。こうした山々に入り込むように敷設された森林鉄道は、その性質上コンパクトに作られたため、レールの幅も762ミリとJR在来線(1062ミリ)に比べると30センチも幅が狭い。これを“業界”では「ナローゲージ」と呼ぶ。

さて、道なき道をゆく森林鉄道だけに、これ以上の深追いはやめておこうと思う。

雨宮式蒸気機関車が牽引した昭和初期の「運材列車」(撮影地・年次不明)=写真提供/中泊町博物館

昭和の高度成長期には、時代の流れでトラック輸送に

1959(昭和34)年になると、より機動力のあるトラック輸送が有利な時代となった。山中には自動車道が整備され、森林鉄道はその軌道敷を自動車道へと譲り渡すことになった。これを後押ししたのが「国有林林道合理化計画」であった。林業の近代化に大きく貢献してきた津軽森林鉄道ではあったが、幹線(本線)は1967(昭和42)年に、支線が1970(昭和45)年までに全廃した。

廃止から55年以上を経た今でも、津軽森林鉄道の「廃線跡」は至るところに点在する。たまたま仕事で手にした当地の地形図に「森林鉄道跡」の文字を見つけ、現地を幾度となく訪れた。そんな廃線跡を眺めていると、もし、今の時代を走っていたならば、トロッコ列車として森林浴が楽しめる観光鉄道に生まれ変わっていたのだろうか、などとあらぬ想像を掻き立てられる。

津軽森林鉄道の鉄橋跡。鉄橋の上には数本の枕木が確認できる=2012(平成24)年11月5日、青森県今別町蓬田村

当時、使用していた機関車や運材台車も、五所川原市金木歴史民俗資料館(五所川原市金木町芦野/津軽鉄道芦野公園駅至近)と、中泊町博物館(青森県中泊町紅葉坂/津軽鉄道津軽中里駅から徒歩約10分)に保存・展示されており、間近で見学することができる。

保存展示される津軽森林鉄道(金木営林署)で活躍した機関車=2024(令和6)年9月28日、中泊町博物館
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