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1915(大正4)年の開業から1962(昭和37)年の廃止までの47年間、長野県の軽井沢と群馬県の草津温泉を結んでいた高原鉄道が存在した。「草津軽便鉄道」にその端を発し、のちに「草軽(くさかる)電気鉄道」と名乗った地方交通路線は、全線55.5キロメートル、所要時間は片道3時間30分もかかる長閑(のどか)な鉄道であった。もし、今なお営業運転を続けていたならば、一大観光路線になっていたであろう。草軽電気鉄道は、なぜ廃線に追い込まれたのか。その歴史を振り返ることにしよう。

※トップ画像は、鶴溜(つるだまり)駅~小瀬温泉(こせおんせん)駅間を行く旅客混合列車。けん引する電気機関車は、”カブトムシ”の愛称で親しまれた=写真/市川健三コレクション(筆者所蔵)

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「草津軽便鉄道」が明治45年に創立

主要鉄道は国有を原則としていた時代、ローカル線の建設を補うため当時の鉄道院(のちのJR)は、1910(明治43)年に「軽便鉄道法」という法律のもと、民間による鉄道事業を許可した。軽便鉄道とは、レールの幅が762ミリメートルしかないコンパクトな鉄道のことだ。

翌1911(明治44)年には「軽便鉄道補助法」を公布して、政府が軽便鉄道の建設費を補助する政策を行なった。古来より名湯で有名だった群馬県の草津温泉には、馬車による交通手段しかなかった。そこで、先の新法を活用して1912(明治45)年に「草津軽便鉄道」が創立されるに至った。

軽便鉄道の起点は当初、古くから宿場のあった沓掛(くつかけ/現在のJR中軽井沢駅のあたり)とされていた。軽便鉄道が開業する以前は、湯治客はこの宿場を経由しており、軽便鉄道の起点となることは当然のことと思われていた、しかし、当時から別荘地として名を馳せていた軽井沢に軍配があがり、奪い取られた結果となった。建設工事は、軽井沢側から進められ、1915(大正4)年には新軽井沢駅(省線軽井沢駅との接続駅)と小瀬(のちの小瀬温泉)駅が開業した。

「草軽電鉄沿線案内略図」草軽電気鉄道発行。水色で示されたのが草軽電鉄の路線と駅=資料/宮野佳久コレクション(筆者所蔵)

電力会社の傘下に

1919(大正8)年、路線はさらに延伸され嬬恋(つまごい)駅まで開業した。草津温泉までは、残り約18キロメートルの地点だった。この開業により、ここから馬車に乗り草津温泉へ向かう湯治客が激増したという。

1923(大正12)年になると、利根川水系の吾妻川(あがつまがわ)で水力発電を手がけることになった吾妻川電力(のちの東京電力)が、その資材輸送を目的に草津軽便鉄道を買収した。この買収は功を奏し、それまでの蒸気機関車から電気機関車による運行が推し進められ、1924(大正13)年には社名も「草津電気鉄道」へと改称し、既開業区間であった新軽井沢駅と嬬恋駅間が電化された。

そして、草津温泉への延伸工事にも拍車がかかり、1926(大正15)年には、念願だった軽井沢と草津温泉が1本の鉄道で結ばれた。

小瀬温泉駅と長日向(ながひなた)駅間にあった柳川橋梁を渡るSL列車=写真/市川健三コレクション(筆者所蔵)

日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』などにも登場

さわやかな高原を走る鉄道情緒と、可愛らしいカブトムシのような電気機関車が格好の舞台となったのだろうか。草軽電気鉄道は、たびたび映画に登場した。とはいっても、古くは1931(昭和6)年に制作された映画であり、平成世代の方には出演俳優の名前でさえ、聞き覚えのない話であろう。

当時の人気俳優であった田中絹代さんが主演した『ダムと女房』は、一躍”草軽”の名を全国に知らしめた映画となった。以後、4作品に登場し、なかでも、1950(昭和25)年に製作された『カルメン故郷に帰る』は、主演俳優が高峰秀子さんだったということや、“草軽”の出演場面も多く、また、日本初のカラー映画として人気を博した。

映画『カルメン故郷に帰る』に登場した草軽電気鉄道=写真提供/日本地方新聞協会
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工藤直通
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