台風で路線が分断、段階的に区間が廃止され…
草軽電気鉄道は、草津温泉の湯治客のほか夏季の避暑客に加え、高原キャベツなどの農産物や、沿線の鉱山から産出される硫黄鉱石の貨物輸送によって、その経営は成り立っていた。1945(昭和20)年4月には、東京急行電鉄(現在の東急電鉄)の傘下に入るも、国鉄信越本線(長野県ルート)や長野原線(群馬県ルート)から路線バスを乗り継ぐという観光ルートが確立したこともあり、乗客数は1955(昭和30)年をピークに減少へと転じた。
1959(34)年には、台風によって上州三原駅近くの吾妻川橋梁が流され、路線は分断された。乗客数の減少に歯止めがかからない状況や資金難も相まって、橋梁の復旧を断念し、路線が分断していた新軽井沢駅と上州三原駅間を1960(昭和35)年に廃止した。残る区間も、1962(昭和37)年に廃止され、草軽電気鉄道は鉄道事業から撤退した。
廃線跡を辿る旅、「デキ13号機」は軽井沢駅前に
1962年の全線廃線からすでに60年以上が経過していることもあり、大部分の廃線遺構は発見しずらい状況にある。そのなかでも、道路橋に転用された橋台や、山中に取り残された橋脚がある一方、道路拡幅により整地され痕跡がなくなったものや、自然崩壊(崩落)したものがあるのも事実だ。筆者が1986(昭和61)年ころに訪れたにときは、生い茂った山中で崩壊寸前の二度上(にどあげ)駅の駅舎を確認することができたが、今はもう朽ち果ててないだろう。唯一現存する駅は、「旧草軽電鉄北軽井沢駅駅舎」として群馬県長野原町に残るものだけだ。国の「登録有形文化財(建造物)」に指定され、北軽井沢観光協会が管理し、期間限定で公開している。
”カブトムシ”の愛称で親しまれた電気機関車「デキ12形」。そのうちの「デキ13号機」は、今も軽井沢駅前にある「旧軽井沢駅舎記念館」の傍らに保存されている。草津温泉駅跡にある小さな公園には、この地に駅があったことを標(しる)したモニュメントがある。
文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元日本鉄道電気技術協会技術主幹。芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、鉄道友の会会員。