JR品川駅に隣接する広大な車両基地を中心としたJR高輪ゲートウェイ駅周辺の再開発事業。この工事では、それまで忘れ去られていた明治時代の鉄道遺構「高輪築堤(たかなわちくてい)」が発掘されるなど、多くの話題を呼んだ。高輪築堤は、明治時代に初めて鉄道を敷設する際、海上に線路を通すために築かれた鉄道のための建造物で、日本の近代遺構としても重要な歴史的建造物だ。もとは、旧東海道(現・国道15号)より東側は海だった高輪の地は、明治から大正期にかけて埋め立てが進められ、陸地化された。「高輪海岸」と呼ばれた旧東海道沿いは、どのように進化を遂げていったのであろうか。
忘れ去られていた明治期の高輪
発掘調査は、平成31年(2019年)4月にJR高輪ゲートウェイ駅周辺の再開発工事に伴う掘削工事中に、石垣の一部が出土したことが事の発端であった。そもそもこの地が、埋め立てられてできた土地であることはわかっていた。
その証拠に、1914(大正3)年12月の東京駅開業のころにも、高輪周辺では大規模な鉄道工事が行われていた。かつて品川駅と田町駅の間(高輪ゲートウェイ駅開業以前)にあった京浜東北線(北行)と、山手線(内回り)がオーバークロスする「京浜高架橋」の建設では、当時も、高輪築堤の石積みを破壊することなく、むしろ避けるかのように土壌のよい高輪築堤の盛り土の中央部に橋脚(高架橋の柱)が建設されていた。そのほか、埋め立ての際に陸地と埋立地の高さを調整するため、旧東海道の護岸や高輪築堤の石積みを数段撤去している。
当時の建設従事者は、この場所に「高輪築堤があったこと」や「埋められたこと」を知っていたに違いない。なぜ、これらの事実を口伝や記録として、残しておかなかったのか。よもや貴重な歴史的建造物になろうとは思いもしなかったのであろうか。
旧東海道の石積み護岸と高輪築堤
東海道に面した高輪海岸と呼ばれた地域は、河岸を営む商人や漁師たちが多く住み、品川沖では牡蠣(かき)の漁が行われるなど、遠浅の地形を生かした漁業が盛んな地域だった。
1870(明治3)年から始まった鉄道工事は、当初、高輪海岸の陸地側に線路を通すことを計画していた。しかし、時の政治情勢は「鉄道建設よりも軍艦や大砲などの軍備増強」が叫ばれた時代だった。しかも、鉄道の計画線上には陸・海軍が占用する軍用地が点在していたため、軍部はこれらの用地の鉄道転用を一切認めなかったという。この状況を打開するため、海岸線から少し離れた「海上に築堤を建設」し、線路を敷設することになった。この建設方法を推し進めたのは、鉄道推進派のひとりだった大隈重信だと伝えられる。
旧東海道の石積み護岸(石垣)は、高輪築堤が完成すれば護岸が波によってさらわれる心配がなくなった。このため、石垣の上積み部分(3段)を撤去し、高輪築堤の建設材として転用したとする記録も残されている。
東海道沿いの用地拡大
旧東海道に沿った海岸部のうち、現在のJR高輪ゲートウェイ駅周辺は、「芝牛町(しばうしまち)」と呼ばれた商業地だった。この地には、京都から移り住んだ牛車を扱う運送業者の牛小屋が軒を連ね、海岸部の水路には「荷揚場」が設けられていた。
1887(明治20)年になると、東海道に沿って高輪海岸に面した水路(陸地と高輪築堤の間)の一部が埋め立てられた。この時、新たに石積みの護岸が水路に築かれた。これにより旧東海道の護岸は、埋め立てられた地中へと姿を消した。近年に行われたこの地の発掘調査では、明治時代の生活様式を垣間見ることのできる出土品が数多く発見された。