車町の河岸と第七橋梁
現在の国道15号はかつての旧東海道。その「泉岳寺交差点」とJR線路との間の地域は、かつての港区の旧住居表示では「芝車町河岸(しばくるまちょうがし)」と呼ばれていた。この旧東海道は、当初、「明治一號國道(めいじいちごうこくどう)」と呼ばれ、と「海」に挟まれた土地には、田町駅に向かって「河岸=荷揚場」が形成されていた。この河岸の歴史は古く、江戸時代の1634(寛永11)年までさかのぼる。高輪築堤が陸続きではなく、海を一部残す形で海上に独立した構造物として建設されたのは、この河岸で生計を立てる商人からの「河岸存続」の要望があったからといわれる。
このようにして、鉄道開業後も陸地と高輪築堤との間に残された「水路」に面して「河岸」は形成された。そして築堤によって海がさえぎられることなく、その河岸に漁船が着岸できるようにと築堤の途中に橋を架け「通船口」を設けた。このいくつか設けられた通船口のうちの一つが、高輪ゲートウエィ駅周辺の再開発事業の際、大きく取り上げられた「第七橋梁(きょうりょう)」だった。これらの鉄道遺構は、令和3年(2021年)9月に明治創業期の鉄道指定史跡に追加されるかたちで、史跡「旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」に指定された。
お化けガードのいきさつ
周辺の埋め立ては、年を追うごとに拡大の一途を辿った。「車町河岸(大正12年以前に存在)」も移転を余儀なくされ、第七橋梁もこの用地整理に伴い1910(明治43)年9月に埋め立てられた。この代替となる橋として建設されたのが「高輪橋」であり、のちに高輪大木戸史跡の裏手に存在した通称”お化けガード”。タクシーの“行燈(あんどん)殺しのガード”とも呼ばれ、人が中腰にならないと通れない……といわれた「高輪橋架道橋(たかなわばしかどうきょう)」がそれであった。このお化けガードは、高輪海岸の陸地化によりできた「通船口」跡を利用したものだった。
文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元日本鉄道電気技術協会技術主幹。芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、鉄道友の会会員。