「廃線から13年が経過した鉄道の車庫跡地に、客車や貨車が放置されているらしい」。そんな話を聞いたのは、今から39年も前のことだった。この鉄道とは、かつて岩手県八幡平市を走っていた松尾鉱山鉄道である。鉱山から採掘した鉱石などを貨車で輸送するかたわら、観光客輸送にも力を入れていた鉱山会社が直営していたローカル私鉄だ。鉱山事業は、高度経済成長とともに好景気を迎えたが、あることをきっかけに業績は悪化の一途を辿る。なぜ観光路線としても人気のあった鉱山鉄道は廃線へと追い込まれたのか。そこには「硫黄と石油」との因果関係があった。
※トップ画像は、旧東八幡平駅構内の車庫跡地に「放置状態」で置かれていた松尾鉱業鉄道の車両。背景の山は岩手山=1986(昭和61)年5月18日、岩手県松尾村柏台(現・八幡平市柏台)、撮影/日比政昭
「雲上の楽園」といわれた東洋一の硫黄鉱山
岩手県松尾村(現・八幡平市)にあった松尾鉱山の歴史は、1882(明治15)年ごろに山の地表面に自然硫黄が露出しているのを発見したことにはじまる。その後、1914(大正3)年に松尾鉱業株式会社が設立され、本格的な硫黄の採掘と製錬が開始された。その後は、世界恐慌や戦争による輸出不振など危機に見舞われたが、大正時代末期になると“国内需要の約半数”を生産する「一大硫黄鉱山」へと伸し上がった。生産量はその後も増え続け、1935(昭和10)年代には”国内需要の約6割”を占めるようになり、「東洋一の硫黄鉱山」と呼ばれるまでに発展を遂げた。
鉱山会社は、従業員とその家族への福利厚生の一環として、採掘地があった標高900mの地点(元山地区)に「新たな街」を造成した。最盛期には、鉱山で働く従業員4900人、鉱山全体では1万5000人もの人々が暮らした。この街は、当時として最先端であった鉄筋コンクリート造りの鉱員住宅(アパート)を何棟も建設し、その周辺には病院、食堂、小中高の学校、郵便局、映画館、劇場などを整備し、「雲上の楽園」といわれる山岳都市を築きあげた。
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鉱山の発展を支えた鉄道の開業
1914(大正3)年の鉱山会社の設立と同時に建設がはじまった鉄道は、当初は経営母体であった貿易商(増田屋/神奈川県横浜市)の手によって敷設されたもので、レール幅が610mmの「馬鉄軌道(線路上のトロッコを馬が挽いて運ぶ)」を前身とする。この馬鉄軌道により、山から切り出した”硫黄鉱石”などを運搬していたのだ。
1917(大正6)年になると、馬鉄軌道は貿易商から鉱山会社の松尾鉱業へと運営権が引き継がれ、1929(昭和4)年には馬鉄軌道から「ガソリン機関車」による輸送へと切り替えた。その後も、硫黄鉱石の増産とともに、さらなる輸送力の増強が求められるようになり、ガソリン機関車を廃止して、新たに国鉄(現JR)と同じレール幅の「松尾鉱山専用鉄道」を1934(昭和9)年に開業させた。この鉱山鉄道は、国鉄花輪線の大更駅から「雲上の楽園」の玄関口である屋敷台(やしきだい)駅までの全長12.2kmを、蒸気機関車で結んだ。