貨物専用の鉄道から観光路線へ
鉄道には様々な規則があり、専用鉄道とは「貨物を運ぶことに専念」した鉄道という位置づけにあった。鉱山で働く従業員やその家族は、専用鉄道を利用することができたが、鉱山関係者以外の利用は認められなかった。そうしたなか、鉱山の発展とともに沿線住民からは「鉄道利用を熱望」する声があがり、1948(昭和23)年に”一般客”を輸送することができる「地方鉄道」という業態へ組織変更した。その結果、鉄道名はそれまでの松尾鉱山”専用”鉄道から「松尾鉱山鉄道」へと改められた。
これにより、「お客さん」を乗せることができるようになった鉱山鉄道は、“国立公園八幡平”への観光客誘致にも力を入れるようになった。1951(昭和26)年には「輸送力増強」を目的に、蒸気機関車を廃止して電気機関車を使用する電気鉄道へと転身した。
国鉄の直通列車で八幡平へ
「国立公園八幡平」に向かう観光コースの玄関口は、「雲上の楽園」に隣接された鉱山鉄道の終点、屋敷台駅だった。鉱山会社は、1957(昭和32)年頃から繊維業界の不振などで斜陽化していくが、これを挽回するべく1960(昭和35)年になると「八幡平観光」という会社を設立して、観光客誘致に乗り出した。そこで駅名が、”屋敷台”では「観光客にわかりにくい」となり、翌年の元旦から駅名を「東八幡平(ひがしはちまんたい)」に改称した。
1962(昭和37)年からは、毎年2月から4月の毎週末に、国鉄の急行列車「銀嶺八幡平号」を上野駅や盛岡駅から直通運転させて、冬山スキー客を「八幡平」へと送り込んだ。その年の夏には、急行「八幡平」号を走らせて夏山登山客を集客し、紅葉シーズンにも盛岡駅発の臨時列車を走らせた。こうした国鉄からの臨時列車運転は、1968(昭和43)年9月まで続いた。