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「伊豆に鉄道を」。伊豆半島に鉄道路線を誘致しようと、地元住民らが国(政府)に対して請願を行ったのは、1900(明治33)年にまでさかのぼる。それから61年後となる1961(昭和36)年12月に、悲願だった鉄道が静岡県伊東市湯川から同県賀茂郡下田町(現・下田市東本郷)まで開通した。そこに至るまでには、国策としての伊豆半島縦貫鉄道計画や、東急vs西武の競合対決、用地買収の難航、地元バス会社の反対など、決して順風満帆とはいえない道のりだった。こうした時代背景を振り返りながら、伊豆半島を走る鉄道の生い立ちをひも解いてみたい。

※トップ画像は、開業初日に運行された「直通祝賀電車」の出発式のようす。テープカットを行う五島昇・伊豆急行社長(中央)と十河〔そごう〕信二・日本国有鉄道総裁=1961年12月10日、国鉄・東京駅、写真所蔵/杉山裕治〔伊豆急行研究会〕

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住民の請願と鉄道敷設運動

かつての地方行政区分(令制国)のひとつだった「伊豆国(いずのくに)」。これは現在の伊豆半島を指し、この地に鉄道がお目見えしたのは1898(明治31)年のことだった。その鉄道とは、中伊豆を走る伊豆箱根鉄道(通称:いずっぱこ)の前身となる「豆相〔ずそう〕鉄道」で、伊豆中部にある伊豆長岡駅と東海道本線(省線→現JR)とを結んだことにはじまる。

この話を聞きつけたのであろうか、静岡県賀茂郡中川村(現・松崎町北部に位置)の住民ら134名は、時の明治政府に対し、1900(明治33)年2月に「下田鉄道敷設の請願」を行った。そこには「伊豆半島の中心を縦貫し、伊豆七島と内地とを連絡させ、軍事上、最も樞要〔すうよう〕なる線路」と、鉄道の必要性を訴えかけた。当時は、「帝国(日本国)にとって必要な路線」ということが、“国が建設する鉄道”の必須条件となっていた。

しかし、この願いは聞き入れられることはなく、続く1904(明治37)年には賀茂郡の有志らでつくる「鉄道期成賀茂郡同盟会」が結成され、“自力”での鉄道建設を画策したが、この計画はあえなく挫折する。時がたち、1922(大正11)年3月になると伊東町(現・伊東市)も鉄道誘致に乗り出し、「熱海下田間鉄道敷設の請願」を行った。その内容は、熱海町より伊東町を経て賀茂郡下田町に至る鉄道を建設するというもので、現在のJR伊東線と伊豆急行線の礎となる構想であった。

さらに、「附近海陸の利源を開発するのみならず、沿道無数の温泉等に往来する旅客の交通に利便をもたらすもの」と説き、「熱海~伊東間を第一期、伊東~下田間を第二期として敷設工事に着手して欲しい」とまで言及していた。この請願を受けた時の政府(貴族院)は、「願意は採択すべきもの」として議決に至った。

当時の鉄道政策は、1892(明治25)年に制定された「鉄道敷設法」により建設する路線が定められており、「帝国に必要なる鉄道」という大前提があった。この法律は、1922(大正11)年4月に新法へと改正され、そのなかに記される「政府の敷設すべき予定鉄道線路」のひとつとして、熱海~下田~松崎を経て大仁(おおひと)へと至る“伊豆半島循環鉄道”が列記された。

1900(明治33)年に静岡県賀茂郡中川村(現・松崎町北部)の住民らが鉄道誘致を請願した際の記録文書=資料/国立公文書館蔵
1922(大正11)年4月10日に公布された新法「鉄道敷設法」の御署名原義(写し)。大正天皇「嘉仁」と摂政に就任していた昭和天皇「裕仁」の名が記されている=資料/国立公文書館蔵
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伊東~下田間を結ぶ「無軌道電車構想」
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