伊東~下田間を結ぶ「無軌道電車構想」
1922(大正11)年4月、鉄道敷設法で“伊豆半島循環鉄道”の敷設が周知されると、賀茂(現・下田市など)と田方(現・伊東市など)の両郡住民は、伊豆循環鉄道期成同盟を結成し、建設推進運動や関係先への働きかけを精力的に行った。しかし、国を取り巻く情勢や財政事情のほか、自動車へのシフトといった社会的な動きなどもあり、結果、鉄道建設が実を結んだのは、1938(昭和13)年12月の伊東線(熱海駅~伊東駅間)の開通にとどまっていた。伊豆循環鉄道期成同盟も、戦後を迎えた1948(昭和23)年になると、これ以上の鉄道建設は見込めないとして解散してしまう。
その翌年(1949/昭和24年)の8月になると、駿豆〔すんず〕鉄道(→のちの伊豆箱根鉄道)が伊東・下田間60.3kmに「無軌道電車(無軌条電車ともいう)」を走らせようと計画を企て、敷設免許申請を運輸省に対して行った。この「無軌道電車」とは、道路上に張られた電線(トロリー線)から電気を給電して走行する「トロリーバス」のことだ。ゆえに線路(レール)を必要とせず、道路上を走ることから“無軌道電車”と呼ばれる。バスでありながら、れっきとした鉄道の仲間なのだ。
しかし、走行しようとする道路は悪路(未舗装など)であったことや、道路に電線を張り巡らせるにしても地理的条件が悪いため、相当困難な事業と評された。計画では、現在の国道135号線の旧道をなぞるように、国鉄伊東駅前から對馬村(伊東市南部)、城東村(東伊豆町)、稲取町(東伊豆町)、下河津村(河津町南部)、白浜村(下田市東部)、浜崎村(下田市東部)を経由し、下田町(下田市)へと至るルートを通るというものだった。この計画線上には、ライバルとなる東海乗合自動車(現・東海バス)の既定路線が存在し、競合路線として許認可に与える影響は大きかった。
かくして駿豆鉄道は、1952(昭和27)年3月にトロリーバスの免許申請を取り下げ、この計画を断念した。これと前後するように同年1月、奥伊豆住民らは伊豆循環鉄道期成同盟を再び発足させ、国による鉄道建設を推進する運動を展開した。この動きは、1954(昭和29)年12月の運輸省(当時)の諮問機関である鉄道建設審議会をも動かしたが、「新線建設は国家財政および国鉄財政に鑑み慎重に検討すべきである」との答申がなされ、伊東駅以南となる国鉄伊東線の下田延伸計画は見送られた。




