3社が競った伊豆半島の新線計画
1955(昭和30)年の年初、東京急行電鉄(現・東急電鉄)の会長だった五島慶太氏は、伊豆半島への事業進出についての抱負を、社内報を通じて述べている。そこには、鉄道ではなく「専用道路」を建設して伊豆の開発を進め、”伊豆半島を日本一の観光地にする”という壮大なプランが描かれていた。ところが、伊東市にある名門“川奈ホテル”の当時会長だった大倉喜七郎氏(大倉財閥2代目総帥)から、「ぜひ鉄道を建設してほしい」と懇願されたことから、長らくの悲願であった国鉄伊東線の下田延長線建設に舵を切ったとされる。
翌年(1956/昭和31年)の2月には、東京急行電鉄は五島昇〔ごとうのぼる〕社長を代表発起人として「伊東下田電気鉄道」を発足させ、伊東下田間地方鉄道敷設免許申請書を運輸大臣に提出した。伊豆急行線建設のはじまりである。発起人には、大倉喜七郎氏をはじめ、小佐野賢治氏(国際興業社長)といった業界の重鎮らが名を連ねた。申請書には、着工後1~2年で線路を完成させ、伊東駅では国鉄と協定を結び相互乗り入れを行うことが記されていた。五島慶太氏は、「終生の事業として、伊豆の人々のために尽くし、必ず免許を取得し鉄道を完成させる」と語った。
そのいっぽうで、1923(大正12)年に箱根土地(のちの国土計画→コクド、西武鉄道の元親会社)の傘下に入っていた駿豆鉄道(→のちの伊豆箱根鉄道)は、東急に遅れること1年後の1957(昭和32)年に、国鉄伊東線の下田延長線たる使命を代行するものとして、伊東~下田間46kmの地方鉄道敷設免許申請を運輸省に提出した。
駿豆鉄道は、この申請に先駆けて1956(昭和31)年5月には修善寺駅~伊東駅間21.6kmの鉄道敷設免許申請を手始めに、同年6月には修善寺駅~湯ヶ島(伊豆市湯ヶ島)を結ぶ11.3km、翌年(1957/昭和32年)の3月には三島駅~御殿場線の下土狩(旧東海道線の三島)駅間2kmを結ぶ、3つの新線計画を立ち上げ、それぞれ免許申請を行った。これは、国が計画した“伊豆循環鉄道”(熱海~伊東~下田~松崎~大仁)と一体をなす、壮大な鉄道計画でもあった。
これとは別に、小田急電鉄も沼津駅~湯ヶ島間29.3kmを結ぶ新線を計画し、その免許申請を1956(昭和31)年4月に行っており、まさに東急VS西武を中心とした鉄路獲得競争が激化した時代でもあった。



