東急vs西武による伊東~下田間の鉄路獲得争い
西武鉄道系の駿豆鉄道は、自ら計画していた三島~修善寺~伊東ルートの延長線として、伊東~下田間の鉄道敷設免許申請を行ったわけだが、東急側が申請した伊東~下田間と同じく、国鉄伊東線の延長線となる伊豆循環鉄道の計画線上をなぞるように予定線路は描かれていた。
国鉄予定線(伊東~下田~松崎~大仁間)の104km区間は、国の新線建設計画において調査線(建設予定線)の指定を受けておらず、新線建設の時期はまったくの未定となっていた。それに先駆けて、東急と西武が私鉄路線として鉄道を建設しようとするものだから運輸省も困りはて、同省の諮問機関である運輸審議会にその判断を委ねることになった。
駿豆鉄道の計画は、電車40両、貨車50両、電気機関車5両による運行を見込み、設置される駅は伊東駅(起点0km)、川奈駅6km、富戸駅12km、八幡野駅16.5km、大川駅22km、熱川駅25.2km、白田駅26.5km、稲取駅31.5km河津駅36.3km、白浜駅43km、下田駅46kmだった。
対して、伊東下田電気鉄道は電車22両による運行を見込み、国鉄伊東駅・起点0km、伊豆鎌田駅2.1km、川奈駅6K000m、川奈ゴルフ場前駅8.4km、富戸駅12km、八幡野駅16.6km、伊豆大川駅22.4km、熱川駅25.3km、伊豆片瀬駅27km、稲取駅31.5km、谷津駅36.28km、縄地駅40km、稲梓駅42.5km、蓮台寺駅45.5km、伊豆下田駅48.2km、免許申請終点48.5kmとなっていた。
伊東下田電気鉄道の建設予定キロ程が48.5kmなのに対し、駿豆鉄道が46kmだったのは、白浜(下田市東部)を通るか否かによる僅差だった。伊東下田電気鉄道は、この白浜を通すことを目論んでいたといわれるが、箱根土地に先手を打たれて用地買収が思うように進まなかったとする説もあるなど、真相は判然としない。後年となる平成初期のころ、白浜に伊豆急行線の駅を誘致する話があったらしいが、いまさら実現するはずもなく立ち消えになったという。このほか、最後まで用地買収が難航した伊東地区では、伊豆急行の開通によって旅行客が熱川・下田方面へと流れてしまうことに不安をいだいた地元旅館組合が、土地売却を拒んだケースもあったが、静岡県が仲裁に入り事なきを得た。
1959(昭和34)年1月、運輸審議会の答申はこうであった。「運輸審議会には、その建設を民鉄か国鉄かにする権限はないので、運輸大臣において慎重に考慮、決定することで差し支えない」。加えて、「伊東下田電気鉄道の申請は、これを免許することが妥当とし、伊豆箱根鉄道の申請はこれを却下する」というものであった。
その理由には、伊東下田電気鉄道の方が先願という点や、東急(伊東下田電気鉄道)による免許申請提出の報が地元に伝わると、三十有余年にわたる父子相伝の悲願達成のため下田町などは全町挙げて強力に支持、協力万進する事になったことなど、地元住民の支えを得られたことが大きかったといわれる。当時の駿豆鉄道の記録によれば、建設に対して地元は伊東下田電気鉄道には協力的であるが、当社(駿豆鉄道)に対しては批判的であったと記される。
そしてもうひとつ、免許交付に至るまでにクリアしなければならない問題があった。それは地元バス会社から全面的な同意を得ることだった。競合路線、つまりはライバルとなる会社の収益を略奪するような経営手法は望まない、というのが国のスタンスだったからだ。東急(伊豆下田電気鉄道)側は、相手方「東海自動車(現・東海バス=小田急グループ)」が、伊東下田電気鉄道の敷設免許申請を受け入れる交換条件として、次のような“覚書”を1959(昭和34)年1月に交わした。
①免許の日より概ね3年以内に鉄道建設を完遂する。②既存の定期バス事業および大型貸切バス事業の継承(買収)を一切行わないことはもちろん、新たに出願(免許申請)も行わない。③各駅の乗合自動車の構内営業を東海バスに優先的に認める。④東海バスの株式を取得(買収)するなどの行為を行わない。⑤相互に妨害的行為は行わない。⑥発生する各種事案については、相互に好意的に解決を図る。⑦事業計画を変更する場合は、東海バスに報告すること。








