こどもの国線の誕生
1965(昭和40)年5月5日に開園した「こどもの国」は当初、横浜市が運営を行っていたが、翌年の昭和41年に「こどもの国協会」が発足し、運営も移管された。こどもの国の立地は「弾薬庫の跡地」とあって、交通の便には恵まれていなかった。近隣となる東急田園都市線の長津田、田奈、青葉台の各駅からは、バスで20分を要し、とくに日曜・祝日ともなると、周辺の道路が混雑する状況だった。
その打開策として、旧軍用線を活用した鉄道、すなわち「こどもの国線」を建設することになった。東急電鉄と「こどもの国協会」は協議の結果、鉄道の敷設免許を「こどもの国協会」が取得し、東急電鉄が鉄道の建設と、その線路を借り受けて運営(営業運転)を行うことになった。こうして、1967(昭和42)年4月28日に「こどもの国線」は開通した。
以来、線路などの施設は「こどもの国協会」が所有し、運転や線路保守等の管理を東急電鉄に委託する方法が取られていた。昭和の終わりごろになると、沿線の宅地化が進み、通勤路線とする声が高まった。そこで、こどもの国協会は、自らで通勤路線の経営をすることは、公益法人(1981/昭和56年に社会福祉法人化)という立場上、「こどもの国」の運営方針とは異なり、当初の目的を逸脱することから、所有していた線路などの鉄道施設を1997(平成9)年に「横浜高速鉄道(第三種鉄道事業者)」へ譲渡し、鉄道事業からは撤退した。
こども国線は、2000(平成12)年3月から横浜高速鉄道が所有する「通勤路線」として生まれ変わったが、引き続き運転や保守などの運営は、東急電鉄(第二種鉄道事業者)が行っている。
旧軍用線の鉄道遺構
こどもの国線のいたる所には、かつての旧軍用線の鉄道遺構が数多く遺されていた。旧軍用線は、現在の「こどもの国線」と同じルートを通っていたが、長津田駅近くにあった軍需工場と、こどもの国の正門と牧場口臨時駐車場付近の2か所に分岐する引き込み線や、本線の途中には車両の行き違い(交換)設備と点検用ピットなどもあった。これらは、こどもの国の建設や通勤線化工事によって、そのほとんどが撤去されており、現在では交換設備があった近くの線路脇に、ほんのわずか遺されるにとどまる。
田奈弾薬庫第1工場(現在の「こどもの国」牧場口臨時駐車場付近)へと続く「引き込み線跡」には、昭和の末期まで多くの鉄道遺構が遺されていた。こどもの国通り(県道139号線/真光寺長津田線)の奈良橋交差点付近には、軍用線の「レール」が地面から顔をのぞかせていたり、付近を流れる恩田川の支流にも、鉄橋の「橋台」が遺っていた。残念ながら、この2つの「軍用線遺構」は既に撤去されており、見ることができない。
