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行方不明の愛車の謎

この出来事はまあ、忘れた物が物、場所が場所であるだけにかなりの大型忘却と言える。日常に起こる小さな忘却を挙げれば枚挙にいとまがない。

つい先日のことだが、真夜中に筆先がハタと詰まり、思い屈してタバコを買いに行った。書斎に戻って、みちみち考えついた1行を書いて一服つけようとしたら、買って帰ったはずのタバコがない。釣銭の10円玉は机上に置いてある。

さては帰り道で落としたのだと考え、くやしいので捜索に出かけた。途中おまわりさんに職務質問を受けた。自動販売機の近くに見慣れた自転車を発見し、うんざりとした。私は自転車でタバコを買いに出かけ、自転車を路上に忘れたまま帰ってきたのであった。ということはもしや、と思って販売機の受け口を探ると、やはりタバコもそこに置き忘れてあるのであった。

つまり私は自転車でタバコを買いに出かけ、タバコも自転車も忘れ釣銭だけを持って帰ったのである。

また、この種の忘却にはスーパー・バージョンがある。

神保町の書店街に資料あさりに出かけた。

長らく探しあぐねていた昭和39年刊たちまち絶版の「北京風俗図譜」全2巻をついに発見し、あまりの嬉しさに雀躍と帰宅した。

家の前まできてうんざりとした。ガレージに車がない。つまり私は、すずらん通りのパーキング・メーターに車を忘れたまま、地下鉄に乗って帰ってきてしまったのであった。

すぐにとって返すのもアホらしいし、家人にバレて笑いものになるのも癪(しゃく)なので、とりあえず泰然と夕飯を食い、パチンコに行くとか噓をついて神保町に戻った。当然のことであるが半日の時を経たわが愛車にはベットリと駐車違反の貼り紙がついていた。

たいそうくやしく、また情けなかった。さらにくやしいことには、一日じゅう行方不明の車の謎をめぐって、家族の間ではあれこれと憶測がなされており、真実は正確に解明されちまっていたのであった。家族は爆笑し、言いわけのしようもない私は笑ってごまかすしかなかった。

家人を青葉台のコーヒーショップに忘れてきたあの晩、私はしみじみと考えさせられた。

一文にもならぬ小説を書き続けてきた長い間、路上に忘れたまま永久に思い出せぬ人や物はさぞ多かろう。そう考えれば、忘却も笑いごとではない。

(初出/週刊現代1995年5月13日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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