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1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第6回は、不惑を超えた頃、ある悲劇的な体験によって、自らの老化を悟ったとても喜劇的なお話。

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「老化について」

それは京王八王子駅前で起こった

世にも珍しき体育会系作家である私は、43年の甲羅を経た今でも、体力の衰えというものを全く感じない。

そりゃまぁ多少は、頭がハゲたとかコレステロール値が高いとかいうことはある。しかしいまだに二晩や三晩の徹夜ではビクともせず、自宅から1500メートルの距離にある仕事場には朝晩走って通い、前後には腹筋背筋各100回、腕立て伏せ50回の整理運動も欠かさない。

要するに四半世紀前に叩きこまれた自衛隊生活をいまだに続行しており、それに伴って体力もそこそこに維持している、というわけだ。こんな私を、家族や友人は畏怖と軽蔑をこめて「健康病患者」と呼ぶ。

ところが最近、ある思いもかけぬ椿事により、初めて体力の減退を知った。きっと思い過ごしにちがいないと今も自分に言いきかせているのだが、冷静に43歳という年齢を斟酌してみると、やはりそうとしか思えない。

はたして思い過ごしであるのか悲しい現実であるのか、同世代の読者に広く意見を求めたいと思う。

それは、こういうことだ。

過日、取材の必要があって八王子に行った。東京都の西の端に位置する衛星都市である。

そもそも京王帝都電鉄、通称「京王線」は、その昔「東京」と「八王子」を結ぶために敷設された。かつてはどれほどの大都市であったか想像されようというものだ。

長らく地場産業であった絹織物が衰退し、距離が遠いせいでベッドタウン化も立ち遅れたために、この小都市はつい先ごろまで、古き良き街並を随所に残していた。

しかし十数年ぶりにそこを訪れた私は、町の変容に愕かされた。都心の大学がこぞってその近郊に移転してきたことと、遅ればせながらベッドタウン化が進んだことで、古き良き八王子は近代的なメガロポリスに生まれ変わっていたのである。

私の記憶に残る京王八王子駅は、いかにも終着駅という感じの、ひなびた木造の小駅だった。それが、京王線新宿駅の巨大地下空間と一対をなすような大ターミナルに変わっていた。

昔日の面影の全く感じられぬ駅頭のビル街に立ち、感慨もひとしおであった。

もちろん、そんな風景のせいで己れの老化を悟ったわけではない。事件はその直後に起きたのだ。

ガードレールをハードルよろしく……

折しも、冷たい冬の雨が降っていた。私はクソ重たい革コートを着ており、肩からは資料や原稿のギッシリと詰まった、さらにクソ重たい革鞄を提げていた。右手には取材先への手みやげの紙袋を持ち、左手には全体の重みとはちと不釣合の、ちっぽけな折り畳み傘をさしていた。

こうした居ずまいが、まずその直後に起こった悲劇の主たる原因ではあるが、もうひとつつけ加えるとするなら、日ごろから足で小説を書く私の靴が、長年の取材によりひどくすり減っていたことも挙げられよう。

取材先の老人の家は、駅から少し離れた旧商店街にあった。以前に訪れたときは駅前の横断歩道をトコトコ渡れば苦はなかったのであるが、再開発されたロータリーはガードレールで囲まれており、歩道橋を登り降りしなければならなかった。

思えば、雨中に大荷物を提げていたとはいえ、階段を登り降りをする労力を惜しんだこと自体、気づかぬ体力の老化であったのかもしれない。

時刻は午後3時すぎ、目指す向こう岸には下校時の女子高生の群がうじゃうじゃと駅ビルに吸い込まれていた。

老化は決して感じぬが、日ごろわが娘から臭さ汚さを厳しく指摘されている私にとって、彼女らの行列に逆行して歩道橋を渡ることは、娘の前で屁をタレるのと同じぐらい気が引けた。

で、とっさに車の合い間を見計らって、ロータリーを横断しようとしたのである。

このこと自体、ジジイの行動かも知れぬ。しかし交通量はさして多くはなく、巡査の姿も見当らなかった。現実に同じ電車から降りてきた若者たちの多くは、女子高生で混み入った歩道橋には目もくれず、ガードレールをハードルよろしく跳び越えて向う岸に渡っていた。私の行動は決して暴挙ではなかったと思う。

荷物は重く、折りたたみ傘は多少の風を孕んでいた。その期におよんでも、私は極めて用心深い性格なので、こちら側のガードレールを慎重にまたいだ。小説家はつまらぬことを知っている。若者たちの体型に合わせてか、最近のガードレールは昔のものより少々高いのである。

そこまでの用心をし、そこまでの知識があるのだから、身の危険などは全く感じなかった。

私は身長170センチ、体重65キロ、同世代としてはまあ恵まれた部類の体躯をもっている。身長に比して、脚は長い方だと思う。

で、慎重にこちら側のガードレールをまたぎ、左右の安全を確認した。自然条件や負担重量もちゃんと認識していた。

バスが通りすぎた。私のかたわらを、ジーンズにバスケットシューズ姿の学生が追い抜いて行った。私も迷わずその後に続いて駆け出した。

いかに10キロのハンデを背負い、傘と手みやげのカステラとで両手が塞がっていたにしろ、敵はまたげる高さのガードレールなのだから、物理的には事故の起こるはずはなかった。

要は先行した学生が悪いのである。

またぐなり跳び越すなりすれば良いものを、その学生は身軽さとバスケットシューズに物を言わせ、いったんガードレールの上に片足を置いて踏み越えたのであった。

先を行く者の姿をつい真似てしまうのは人間の習性であろう。当然のなりゆきとして、私も彼のやった通りに、ガードレールを踏み越えようとした。

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おとなの週末Web編集部 今井
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