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キンタマ壊滅による不慮の死!?

ほんの一瞬の悲劇であった。折り畳み傘はわずかな風にあおられ、長い取材にすり減った私の靴は、ガードレールの芯棒から滑り落ちた。クソ重たい革のコートと、さらにクソ重たい革鞄もろとも、私の股間は白い鋼の板の上に押し砕かれた。

そのとき決して雄叫びを上げず、ぐっと唇を噛んで雨空を見上げた私は、エラいと思う。行くことも退くこともできず、私はしばらくの間、雨のロータリーに仁王立ちに立っていた。

うじゃうじゃと通り過ぎる女子高生のうち何人かは爆笑したが、きっと日ごろロクなことをしている娘ではあるまい。ともかく私は、妙な格好で人探しするフリなど装いながら、世界の終わりのような苦悶に良く耐えた。

股間はすでに張り裂け、ぐしゃぐしゃに潰れているかもしれぬ、と思った。もしこれで世を去るとしたら、何という無様な死に方であろうと思った。葬儀に際して、家人はいったいどういう説明をするのであろう。まさか八王子の駅前でガードレールを踏みはずし、キンタマをつぶして死にました、とは言えまい。母は先立つ息子の、こんな不孝を許すだろうか。聡明な一人娘は、尊敬する父の遺影と、キンタマ壊滅による不慮の死について、生涯思い悩みながら生きることとなろう。――てなことを考え続けるうちに、ほんの少しづつではあるが、苦痛は和らいで行った。

ともかく呪いのガードレールから片足をはずしたが、その場にしゃがみこむわけにも行かない。そこで私は気力を振りしぼってよろぼい歩き、目の前の書店に入った。

何も今生の見おさめに、わが著書に触れておこうと考えたわけではない。書店はしゃがめるのである。

新書本の棚の下で、適当な一冊を手にしたまま私はしゃがみこんだ。そっと股間をまさぐると、有難いことに健在であった。喜びとともに一瞬、(齢かな……)と思った。

とっさに手にした本が、永六輔の『大往生』であったことは、奇縁である。

(初出/週刊現代1995年3月4日号)

元担当編集者から

40歳を過ぎて初めて、体力の衰えからくる悲惨な体験をしたという浅田さんだが、端から見ると年齢不相応に元気だった。その後も、何度か中国取材に同行した際は、早朝から日没過ぎまで精力的に動き回る健脚ぶりに驚かされた。

昨年、古希(70歳)を迎えられたが、いまだ執筆意欲は旺盛で、2021年7月には『兵諫』が、2022年2月には『母の待つ里』が刊行され、好評を博している。

そういう浅田さんを見ていると、やはり「作家稼業はやわな人間には無理、体力勝負なんだ」と改めて認識してさせられる。

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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